近頃「君が代は」の歌に就いて種々の議論が行はれてゐる樣子である。或は民主主義に反するとか、或は元は戀の歌だとかいろ〱いはれてゐるといふことを友人長岡彌一郎氏から聞いたが、それらの說どもを聽きたゞすと、いづれも勝手な想像を逞くして、根據の無いことを言ひ觸らしてゐる有樣である。かやうな輕薄な言論は或は今の時世の風潮かも知らぬが苦々しい極みである。ここにその長岡氏の問に應じて一往の事を述べたが、更に根本に溯り、又下りて沿革を搜りたるによりて、それらの調査を一括して後來の參考に供することとして茲にこの小册子を綴る。
昭和三十年八月一日 山田孝雄
君が代の歴史
先づ「君が代は」の歌の文獻の上に最初にあらはれたのは何時からかといふに、古今和歌集に見ゆるのが最も古いとせられてゐる。この集は醍醐天皇の勅を奉はつて、紀貫之、紀友則、凡河內躬恆、壬生忠岑の四人が淸撰して延喜五年四月十八日に上つたものであるから、昭和三十年よりかぞへて千五十年前に出來たものである。集めた歌は千百餘首、二十卷に分ち、之を春、夏、秋、冬、賀、離別、覊旅、物名、戀、雜、雜體、大歌所御歌、東歌等の目を立てて分類彙集してある。かくして、その卷七、賀歌の部のはじめに
題しらす 讀人しらす
と標して
我君は千世に八千世にさゝれ石の巖となりて苔のむすまて
といふ歌を載せてある。之が今いふ「君が代は」の歌の古い形だといはれてゐる。しかし、古今和歌集には古くから種々の傳本があつて歌の形も往々差異が生じてゐる。卽ち上の歌も
我君は千世にましませさゝれ石の巖となりて苔のむすまて
となつてゐる本もある。卽ち第二句が
千世に八千世に
千世にましませ
と二樣になつてゐる。流布本といふのは貞應二年七月二十二日書寫の藤原定家の奧書ある本の系統に屬するもので世上一般に行はれてゐるものである
さて又藤原敎長の著した古今集注にはその序の注にこの歌を引いて(本文は所々を注したので、卷七の賀歌の部のこの歌を注してゐない)あつてそれは
ワカキミハチヨニマシマセサヽレイシノイハホトナリテコケム爪マテニ[1]
となつてゐるので、第五句が「こけむすまでに」となつてゐる。藤原雅經の筆と傳へられてゐる今城切の歌もやはりこの古今集注の歌と同じである。なほこのやうな形の歌は後にいふやうに朗詠集の或る本にもある。
以上を通じて見るとこの歌は古今和歌集では本により
我君は千世に八千世に、さゝれ石のいはほとなりてこけのむすまで。
我君は千世にましませ、さゝれ石のいはほとなりてこけのむすまで。
我君は千世にましませ、さゞれ石のいはほとなりてこけむすまでに。
の三樣になつて傳はつてゐるわけである、これらのうちいづれが本とすべきものであらうか、遽かにはいひ難い點もある。下に自然にそれに論及するであらう。
古今集に次いで之を載せてゐるのは紀貫之が同じく醍醐天皇の勅を奉りて古今集を一層淸撰した新撰和歌集である。之は紀貫之がそれを獻らぬ間に天皇が崩御あらせられ又その勅命を傳へ宣した中納言藤原兼輔もまた薨じてしまつた 爲に獻ることが出來なかつたが、その本は序文と共に今に傳はつてゐる。その歌數は三百六十首で、それの賀の部のはじめに
我か君は干世にやちよにさゝれ石の巖となりて苔のむすまて
といふ形で載せてある。
次には天慶八年十月に壬生忠岑の撰した和歌體十種である、その神妙體の例歌五首の第一に
わかきみはちよにましませさゝれしのいはほとなりてこけのむすまて
とある。「さゝれし」は「さゞれ石」の約である。これより後、藤原公任の頃の歌人源道濟にも亦和歌十體といふ著がある。之は忠岑の撰を略取したものと思はるゝが、それの「神妙」にも同じくこの歌をとつてゐる。
古今和歌六帖は(紀氏六帖ともいひ、貫之の女の撰とも具平親王の撰ともいふが、確證はない)その著者は明かで無いが、恐らくは後撰和歌集以後、拾遺和歌集の頃に出來たものかと考へられてゐる。この書の卷四「いはひ」の初にも載せてある。それは
我か君はちよにましませさゝれ石のいはほとなりて苔のむすまて
といふ形である。
一條天皇の朝に四納言といはれたうちの第一人者大納言藤原公任の著した和漢朗詠集といふものがある。之は上下二卷で朗詠するに足るべき詩文の句及び和歌を集め錄したものである。その上卷は春夏秋冬に分け、下卷は雜部として、いづれも細目にわけて、詩文の句と和歌とを揭げてある。その下卷の祝の部には
嘉辰令月歡無極 萬歳干秋樂未央
長生殿裏春秋富 不老門前日月遲
わかきみはちよにやちよにさゝれ石のいはほとなりて苔のむすまて
よろつ世とみかさの山そよはふなるあめか下こそたのしかるらし
の如く漢詩の句二首、和歌二首を併せてあげてある。一般に朗詠集にあげたものは、當時既に朗詠といふ一種の聲樂に用ゐられたものがその內に加へられてあり又さなくとも朗詠とすべき價値ありと信ぜられたものでありこれより後に朗詠として實演せられたものが少く無い。隨つて、かやうに朗詠集に載錄せられたものは後世の歌謠に及ぼした影響の少く無いものであるから、この歌がこゝに載錄せられたことは「君が代」の生命の上には注目すべき事柄である。しかしながら、それは公任が載錄したことによつて生命が後に傳はつたといふべきものでは無くその永い生命力が內在してゐたから公任が載錄せずにはゐられなかつたものであると判定しなければならぬものであらう。
朗詠集に載錄せられたのは上の如く「わかきみはちよにやちよに」の形である。しかし、朗詠集にもいろいろの傳本があり、關戶氏藏行成本、世尊寺行尹本等には
わかきみはちよにましませ、さゝれいしのいはほとなりてこけのむすまて
となつてゐる。又御物の雲紙本や關戶氏藏の行成本には
わかきみはちよにましませ、さゝれいしのいはほとなりてこけむすまてに
となつてゐる。上の如く三樣のあることは古今集と同樣である。なほ今の流布板本の朗詠集には初句「君が代は」とあるけれども、古寫本は大體右の通り「我君は」である。
公任には又深窓祕抄といふ著がある。之は著者がすぐれた歌と認めた古今の歌を百一首集め錄したものであるが、それの最後卽ち百一首めにこの歌を載せてある。それは
わかきみはちよにや干代にさゝれいしのいはほとなりてこけの
無數左右
となつてゐる。
以上あげたやうにこの歌は本によつていろいろの形になつてゐるが、古くは皆初句は「我か君は」とある。第二句は「千代に八千代に」といふのと「干代にましませ」といふのとの二樣になつてゐ、又末句は「こけのむすまで」と「こけむすまでに」と二樣になつてゐる。かくの如くにして三樣の姿をあらはしてゐる。どちらが元であるかは容易にいはれないやうである。しかし、第二句が「干代にましませ」第五句が「こけむすまでに」といふのは平安朝時代のものたけで、その以後にはさういふ例は見えぬ樣である。
首句を「君か代は」としたのは何時頃からであるか。江戶時代に版になつた普通の和漢朗詠集は大抵「君が代は」となつてゐるから、通例「君が代は」としたのは和漢朗詠集にはじまるといふやうにいはれてゐる。しかしながら、古寫本の朗詠集は上にいふやうに大抵「わが君は」である。版本でも延文元年七月廿日の奧書ある尊圓親王筆の本を正保五年に版にした本、慶安元年版建部傳內筆の刻本、承應二年版松花堂筆の刻本、叉延寳二年版本、元祿己巳版本等皆同じである。然るに出雲寺
之より後朗詠する場合は皆「君が代は」であつたらしい。文安五年書寫の朗詠九十首抄の卷首に「和歌披講譜」と題して
きみか代は干よにやちよにさされいしのいはほとなりてこけのむすまて
の歌を甲乙二首に博士を加へて示してある。又天文十七年書寫の梁塵祕抄と題する神樂譜、催馬樂譜、東遊譜、歌披講を記した書にはその披講の例歌として
きみか代は千世にやちよにさゝれいしのいはほとなりてこけのむすまて
をあげ、同じく甲乙二音の博士と箏の手とを加へて示してある。享保八年の樂說紀聞にある和歌披講の譜も同樣である。又享保十八年書寫の朗詠と題する寫本には「嘉辰令月」「東岸西岸ノ柳」「德ハ是北辰」「二星適逢リ」の朗詠の外に水白拍子、今樣、雜藝を載せ、最後に倭歌披譜(講の誤)博士と題して同じく「君が代は」の歌を甲乙二音に博士を加へて示してある。以上四種は和歌披講の譜を示すのを主眼としたものであらうが、その例歌としては皆「君が代は」を採つてゐる。之はその歌が最も廣く何人にも知られ用ゐられたからであらう。
以上述べたものはすべて和漢朗詠集又は朗詠披講の例に限られてゐる。さうすると、首句を「君が代は」とするのは朗詠に限るのであらうか。
ここに鎌倉時代の初に天台座主であつた慈圖僧正(嘉祿元年歿年七十九、謚慈鎭
詠百首和歌 以二古今一爲二其題目一
と標した和歌百首を載せてある。それは先づ「春廿首」のはじめに
- 年のうちに春は來にけりひとゝせをこそとやいはんことしとやいはん
雪の中に春は來にけり吉野山雪とやいはん霞とやいはん
の樣に古今集の歌を題として、それに基づいて、詠じたもので、その詞をとり、その想をとりしたのであるが、その夏以下の題には古今集の歌の上句だけを書いて下句を略してある。卽ち夏十五首のはじめには
- わかやとの池の藤浪咲にけり(下句「山時鳥いつか來鳴かん」を略す)
なつにさく池の藤浪色に出て山郭公鳴をまつかな
の如く書いてある。さてその祝五首のはじめには
- 君か代は干世にやちよにさゝれ石の
さゝれ石の苔むす岩と成てまた雲かゝるまて君そみるへき
とあるのである。ここに我々が注意を牽くのはその題に「君が代は千世にやちよにさゝれ石の」とある點である。今之を見ると慈鎭和尙のいふ所の古今集の賀のはじめの歌は
君が代は干世にやちよにさされ石のいはほとなりて苔のむすまて
といふのであつたといふことになる。然るに我々が今日見る所の古今集、多くの古寫本、又版本皆「我か君は」とあり、一も「君が代は」としたものを見ない。しかしながら拾玉集のこの文を誤寫と斷定することが出來ぬからやはり鎌倉時代の初頃から「君が代は」となつてゐた本もあつたらうと想像しなければなるまい。
今、若し、上の想像が單なる想像で無く實地に存した事實だとしたら、どうして、さう變つたかを一往考へて見るべきでは無からうか。拾遺集卷五賀の部に
- 淸愼公五十賀し侍りける時の屛風に
- 元 輔
君か世を何に譬へむさゝれ石の巖とならむ程もあかねば
といふ歌がある。ここに「さゝれ石の巖とならかとあるのは上の「我君は千代に八千代にさざれ石の巖となりて苔のむすまで」に基礎を置いたものであることは明白である。たゞここで問題になるのは元の歌に「君が代は」とあつたのによつてこの歌が生じたのか、元の歌に「我が君は」とあつたのでその元歌のまゝ「我君は」というては意味が通じなくなるから「我が君は千世に八千世に」とあつたのを約めて「君が世を云々」としたものであるかといふことである。元の歌が「君が代は」であつたのなら、それは慈鎭和尙の據つた古今集と同じといふことになるが、さうでなく「我が君は」であつたとすれば、今のこの元輔の歌などが反映して逆に「君が代は」といふ形がこれらから生じたといふことも考へられぬ譯でも無いが、しかしながらそれらは臆測に止まる。とにかくに古今集にも「君が代は」とした本があつたことは拾玉集に據つて推量せられねばならぬ。
なほ以上の如く元輔の歌のみを考ふることなくして更に考へて見ると「君が代」といふ語は古今集に一首、卷二十、大歌所御歌に
君か代は限りもあらし長濱の眞砂の數はよみ盡すとも
後撰集卷十九、離別に
- 甲斐へまかりける人に遣はしける
- 伊 勢
君か代はつるの郡にあえてきね定めなき世の疑もなく
拾遺集卷五、賀に
- 題しらす
- よみ人しらす
君か代は天の羽衣稀にきてなつともつきぬ岩ほならなむ
といふのがある。これより後「君が代」といふ言の歌が次第に多く見えてくる。それを勅撰集の面で見ると、後拾遺集卷七、賀に
- 題しらす
- 讀人しらす
君か世は限りもあらしはま椿二たひ色はあらたまるとも
— 或人云この歌七夜に中納言定賴がよめる
- 三條院みこの宮と申しける時帶刀の陣の歌合によめる
- 大江嘉言
君か代は千代に一たひゐる塵の白雲かゝる山となるまて
- 承曆二年內裏の歌合に詠侍りける
- 民部卿經信
君か代はつきしとそ思ふ神風や御裳濯河のすまむ限りは
- おなじ歌合(永承四年內裏歌合)によめる
- 式部大輔資業
君かよは白玉椿八千代ともなにゝ數へむかきりなけれは
とあり、金葉集卷五、賀に
- 百首の歌の中に祝の心をよめる
- 源俊賴朝臣
君か代は松の上葉におく露の積りて四方の海となるまて
- 祝の心をよめる
- 大納言經信
君か代の程をはしらて住吉の松をひさしと思ひけるかな
- 後一條院の御時弘徽殿の女御の歌合に祝の心をよめる
- 永成法師
君か代は末の松山はる〱とこす白浪のかすもしられす
- 題しらす
- 藤原道經
君か代はいく萬代かかさぬへきいつぬき川のつるの毛衣
- 宇治前太政大臣の家の歌合に祝の心をよめる
- 中納言通俊
君か代は天つ兒屋根の命より祝ひそ初し久しかれとは
- 大藏卿匡房
君か代はくもりもあらし三笠山みねに朝日のさゝむ限は
— (詞花集ニモノス)
- 祝の心をよめる
- 源 忠季
君か代は富のを川の水すみて千年をふ共絶しとそ思ふ
- 實行卿の家の歌合に祝の心をよめる
- 藤原爲忠
瑞かきの久しかるへき君か代を天照神やそらにしるらむ
- 前の中宮始めて內へまゐらせ給ける夜雪のふりて侍りけれは六條右大臣の許へ遣はしける
- 宇治前太政大臣
雪つもる年のしるしにいとゝしく千年の松の花さくそみる
- 六條右大臣
つもるへし雪積るへし君か代は松の花さく干度みるまて
詞花集卷五、賀には
- 一條院上東門院に行幸せさせ給ひけるに
- 入道前太政大臣
君か代にあふ隈川の底淸み千年をへつゝすまむとそ思ふ
- 長元八年宇治前太政大臣の家の歌合によめる
- 能因法師
君か代は白雲かゝる筑波嶺の峰のつゝきの海となるまて
- 後三條院の住吉まうてによめる
- 讀人しらす
君か代の久しかるへきためしにや神も植ゑけむ住吉の松
千載集卷十、賀には
- 祝の心をよみ侍りける
- 大宮前太政大臣
君か代は天のかこ山出つる日のてらむ限は盡しとそ思ふ
- 祝の心をよめる
- 藤原基俊
奧山のやつをの椿君か世にいくたひ蔭をかへむとすらむ
- 保延二年法金剛院に行幸ありて菊契多秋といへる心をよみ侍りける
- 法性寺入道前太政大臣
君か代を長月にしも白菊の咲くや千歳のしるしなるらむ
- 花園左大臣
八重菊の匂にしるし君か世はちとせの秋を重ぬへしとは
- 俊綱の朝臣さぬきの守にまかりける時祝の心をよめる
- 藤原孝善
君か代にくらへていはゝ松山の松の葉數はすくなかりけり
- 平治元年大嘗會悠紀方の風俗歌、近江國干坂の森をよめる
- 參議俊綱
君か代の數にはしかし限なき千坂の浦のまさこなりとも
- 高倉院の御時仁安三年大嘗會悠紀方の御屛風の歌
- 宮內卿永範
霜ふれとさかえこそませ君か世に逢坂山のせきのすき村
新古今集七、賀にては
- 祐子內親王の家にて櫻を
- 土御門右大臣師房
君か代にあふへき春の多けれは散るとも櫻あくまてそみむ
- 堀河院の大嘗會の御禊日頃雨ふりて其日になりて空晴れて侍りけれは紀伊典侍に申しける
- 六條右大臣
君か代の千歳の數もかくれなくくもらぬ空の光にそ見る
- 承曆二年內裏の歌合に祝の心をよみ侍りける
- 前中納言匡房
君か代は久しかるへし度會や五十鈴の川の流れ絶えせて
- 二條院の御時花有喜色といふ心を人々つかうまつりけるに
- 刑部卿範兼
君か世にあへるは誰も嬉しきを花は色にも出てにける哉
- 祝の心をよみ侍りける
- 皇太后宮大夫俊成
君か代は千代共さゝし天の戶やいつる月日の限なけれは
- 和歌所の闔開になりて始めてまゐりし日奏し侍りし
- 源 家長
藻汐草かくともつきし君か代の數によみおくわかの浦浪
- 百首の歌よみ侍りけるに
- 後德大寺左大臣
八百日ゆく濱の眞砂を君か代のかすにとらなむ沖つ島守
以上は慈鎭和尙の頃までの勅撰集の賀の部にある「君か代」とよんだ歌である。上のやうに「君が代」といふことが盛んに用ゐられたので、それにつれて慈鎭の據つた古今集が初句を「君が代」とすることになつたものとも考へられぬことも無い。かくの如くにして和漢朗詠集の祝の部の歌も專ら「君が代は」といふことになつたのでもあらう
新續古今集七、賀部に
- 正治二年百首の歌奉りける時
- 式子內親王
君が代はちくまの河のさゝれ石の苔むす岩となりつくすまて
とある。これも「君が代は」の歌に據つたものであることは著しい。これは慈鎭よりも時代が少し早いか、むしろ同時代と見るべきであらう。これはこの頃既に「君が代は」とかはつてゐた本があつたのかも知れぬ。
ここに又室町時代のものに往々、第二句の「千代に八千代に」を「千代に八千代を」としたものが見ゆる。例へば曾我物語卷六の「五郎大磯へ行きし事」の條に
義秀ひやうしを打ちたてさせ
「君が代は千代に八千代をさゞれ石の」としぼりあげて「いはほとなりて苔のむすまで」と短く舞うてをさめけり。
とあるし、結城戰場物語に春王安王の捕へられたる後首の座に直らんとするに當り、その前夜別を惜み舞をまうた時の事を叙して
君か代は千代に八千代をさされ石の」と舞たまひければ
とあるのも謠曲「春榮」に春榮が祝言として舞ふ時の「シテ」の謠ふを叙して
千代に八千代ををさゝれ石の」いはふ心は萬歳樂
とあり、又「吳服」に後ジテの謠ふ詞として
君が代は天の羽衣稀にきて撫づともつきぬ巖ならなん、千代に八千代を松の葉のちり失せずして色は猶、まさきのかづら長き代のためしにひくや綾の紋
とあるのも、皆同樣のものであらう。
江戶時代に至つても同じ事が散見する。先づ古淨瑠璃では「賴光あとめろん」第四に
「きみが代は千代にや千代をさゝれいし」としうげんうたひ立ければ
とあり、近松半二等の妹脊山婦女庭訓第二に
八重九重の內までも治まりなびく君が代の千代に八千代をさされ石の祝ひ壽ぎ申にぞ甚叡感おはしまし
とあるのも同じである。
以上の多くは或る句を省いてあるが、その全き一首を示したものは曾我物語の外にもある。松永貞德の戴恩記の卷末に加へたものは
わか君はちよにやちよをさゝれ石のいはほとなりてこけのむすまて
とあり、首句を古今集に同じくしてあるが、第二句の末が「を」となつてゐる。
なほこの外に、別の形をとつたものがある。それは「うらみの介のさうし」に
あやめ殿かれうびんがの御聲にて當世はやりけるりうたつぶしと思しくてぎんじ玉ひけるは
君が代は千代に八千代をかさねつゝいはほとなりて苔のむすまで
とある。之によると、隆達節がかやうに第三句を「かさねつゝ」としたと見ゆるけれども隆達自筆の小歌は今日にも數々傳はつてゐるが、いづれも「千代に八干代にさゝれ石の」となつてゐて、このやうな形のものは一つも無い。之は「八千代を」と云つたから自然「重ねつゝといふべき語路」である爲におのづから、かくなつたものであらう。
第二句を「千代に八千代を」としたのは曾我物語、結城戰場物語から、謠曲、淨瑠璃、それから小歌に及んでゐることは上に述べた所であるが、謠曲や淨瑠璃がすべてさうであるのでは無い。謠曲でいふならば、老松の急の段に
是は老木の神松の千代に八干代にさゞれ石の巖となりて苔のむすまで
とあり、弓
君が代は千代に八千代にさゞれ石の巖となりて苔のむす云々
と謠ふ これらは皆「八千代に」といふ形によつたものである 淨瑠璃では近松の花山院后諍の第五の終の邊の今樣の舞のことを叙して
竹の園生の末かけてめでたき御代の例にも引くや子の
日 の姫小松、千代に八干代にさゝれ石のいはほとなりて苔のむすまで、萬歳樂と呼ばふなるつると龜との齡をば重ね重ぬる舞の袖
とあるのは「君が代は」の首句は略してあるが、次は「千代に八千代に」とある。又源氏烏帽子折の第五の初の文は
君が代は千代に八千代に榮えますとよはた雲や伊豆の國蛭が小島におはします右兵衞の佐賴朝は云々
とあるは「さざれ石」以下を略したものである。又兼好法師物見車の上の繪馬の話の所に
鬼界高麗
百濟國 のあらき夷を攻滅してかへる君が代千代に八千代にいはほ に弓をおつとりのべて云々
とあるは「いはほ」といふことを導き且つ祝賀の意を寓したものであるが「千代に八千代に」といふ歌に據つたものである
近松以外の淨瑠璃でも同樣である。金屋金五郎後日雛形の初めの部に
千代に八干代にさゝれ石の巖となりて苔のむす迄〱」と皆同音に和歌をあげ云々
とあり、苅萱桑門筑紫𨏍[2]第四の道行越後獅子に
逃げてのかはの觀世音步みながらに遙拜し齡を祈る松島や千代に八千代にさゝれ石岩出を跡になし云々
とある。之は「齡を祈る」と云つたからこの歌を引き用ゐたのであるが、「岩出」といふ地名を導く爲に利用したもので、「いはほ」といふ語を「いはで」にかけ詞にしたのである。又神靈矢口渡の第二に
運の月形鎌倉武士、三國一の高名も時に大島長門が妻、お浪といへど浪風も治まる武功、君が代は千代に八干代にさゞれ石巖の上の釣竿は軍の先生名も高き太公望といふ人かと云々
とある。これら皆「八千代に」と唱へたことを明かに示してゐる。
上に引いた「うらみの介のさうし」には
當世はやりけるりうたつぶしとおぼしくてぎんじ玉ひけるは
とあるから上にあげた「八千代をかさねつゝ」といふのは隆達節の小歌として謠つたものであらうが、上にも述べた通り隆達の自筆若くはそれの寫本として傳ふる十一種の本について高野辰之博士の精査したその結果を見れば皆
君が代は千代に八干代にさゝれ石の巖となりて苔のむすまで
とある。而して同氏はその著日本歌謠史日本歌謠集成に隆達自筆のボストン博物館藏の本、高野氏藏の隆達自筆の小歌三百首の寫眞を揭げてあるが、三百首本の首は
君が代は干世にやち代にさゝれ石の岩尾となりて苔のむすまて
となつてゐる。ここに「巖」が「岩尾」となつてゐるのは當時「いはお」と發音したので、その發音の通りに書いたものであらう。この外編笠節と唱ふる小歌の集の卷頭にも隆達の小歌と同じ形のこの歌が揭げてある。
以上の外箏唄では竹生島、鶴の巢寵、難波獅子等の曲にも、長唄の老松の曲でも、常盤津の子寶三番叟の曲でも、河東節の松竹梅の曲でも、一中節の老松の曲でも皆「千代に八千代に」といふ形の歌を用ゐてゐる。
以上縷々述べたやうにこの歌は
の七樣になつてゐるが、その第四の形は專ら廣く行はれて來たもので德川時代でいへば多くの淨瑠璃隆達節、編笠節等の小歌、箏唄、長唄、常盤津、河東節一中節等に用ゐるものは大抵この形によつてゐる。さうして、それが明治時代に至つて、海軍の軍樂に用ゐられ學校の唱歌其他にも用ゐられやがて國歌として廣く行はれて今日に及んだものである。
以上の如くいろ〱の形になつてゐるうちいづれが本來のもので、いづれが變化したものかを考へて見ねばなるまい。
先づその古いものは
の三つである。この三つは首句は同一で意味も大體同じであるが、第二句に於いて一と二と同じで三は著しく異なるものである。又第五句に於いては一と三とが同じで二は稍異なるものである。「苔のむすまで」「苔むすまでに」はその「まで」といふ副助詞の下に格助詞「に」を加ふるか否かの差である。この二の場合、その意味は略同じであるが、その用例に新古の別があるかといふに、かやうな場合に「まで」「までに」と兩樣に用ゐることは萬葉集の頃から例のあるものである。卽ち卷十七の
三九一二
保登等藝須安不知能枝爾由吉底居者花波知良牟奈珠登見流麻泥
卷五の
八四四
伊母我陛邇由岐可母不流登彌流麻堤爾許許陀母麻我不烏梅能波奈可母
卷十五の
三七〇二
多可思吉能宇良未能毛美知和禮由伎弖可敝里久流末低知里許須奈由米
卷二十の
四四〇八(上略)
安里米具利和我久流麻泥爾多比良氣久於夜波伊麻佐禰 (下略)
等を比較すればいづれも殆ど同時代に用ゐられて新古の別もつけかぬる樣である。「コケムスマデニ」といふのは萬葉集に例が少く無い。先づ卷二の
二二八
妹之名者千代爾將流姫島之子松之末爾蘿生萬代爾
をはじめ「
しかしながら第二句を「ちよにやちよに」としたのと「ちよにましませ」としたのとはその形に於いて著しく違ふので、この二者には新古の差別が考へられなければならぬものである、元來この歌の構成は二段落であつて三の歌では
我が君はちよにやちよに」(第一段)
さされ石のいはほとなりてこけのむすまて」(第二段)
となるのである 而して、第一段の末には省略があり、第二段の末にも省略がある。若しこれらに省略が無いものとすれば、この歌は片言となりて、歌としては成立せぬものといはねばならぬ。若し、私の言ふことを疑ふならば、「ちよにやちよに」から、どこに言がつづくか考へて見るがよい。そこから「さざれ石の云々」につづく道理が無い。さて又「さされ石のいはほとなりてこけのむすまで」も亦下につづくべき語勢であるのに、ここにも下にそれを受くるに該當する語が無いのである。かくして考へて見るに、かやうに二段落の歌で、各段落いづれも下に省略ある歌といふものは合理的に物を考へた時に全く譯のわからぬものといはねばならなくなる。次に一の歌では
わか君はちよにましませ」(第一段) さゝれ石のいはほとなりてこけのむすまて」(第二段)
となる。同じく二段落ながら、この形に於いては第一段の末は「ましませ」とありて意義が完了してゐる故に、三の歌の如き片言になつてゐない。而して第二段の末は「こけのむすまで」であるから、ここには三の歌と同じく省略かある。その省略せられた語は蓋し、第一段の末と同じく「ましませ」であらう。しかも、この第二段には主格も無い。そこでその主格を補ひて完全な形とするときは
(わか君は)さゝれ石のいはほとなりてこけのむすまで(ましませ)
となるべきものであらう。卽ち、この第一段の意味を繰り返して、第一段に「千代に」と抽象的に云つたのを「さされ石のいはほとなりて苔のむすまで」と具體的の事柄で示したものである。それ故に、主格の「わか君は」と述格の「ましませ」を第一段に示されてあるに任せて、ここには省いて、その意味をあらはすと共に具體的に力強き 表現としたものであらう。
さて、上の如くに考へて來ると、
我か君はちよにましませ
さゝれ石のいはほとなりて苔のむすまて
といふ方が、形の整つた歌であり、その表現の上に無理の無いものだと認ねめばならぬと同時に
我か君はちよにやちよに
さゝれ石のいはほとなりて苔のむすまて
といふのは第一段の末に述格の省略があり、第二段の末にも亦述格の省略があり全體として述格が一つも見えぬといふ破格なものであることは歌として頗る異例のものである。それ故に素朴に單に或人の詠じた歌として見るときは必ず
我か君はちよにましませ
さゝれ石のいはほとなりて苔のむすまて
といふ形で無くては通じないであらう。さうして熟考するに、この歌は最初は上の如く「ましませ」といふ形で生じたものであらう。さうすれば、どうして「千代にやちよに」と云ふ變則な形が生じたのであらうか。
按ずるにその「ちよにましませ」といふ形の歌が盛んに行はれて人口に膾炙すること久しくして、あまりに爛熟した結果、「ちよにましませ」といふことの意味精神が人心に馴れ過ぎて、それにては感じも弱く、意味も生溫く感ずるに至り、第二段の末に省略あることは誰も感じてある所であるから、それと同じ省略を第一段の末にもあるものとして、「千代に」を一層強むる意味を以て「八千代に」を加へてその意味を深め、その精神を強調し得たとしたものであらう。かくして「千代に八千代に」の歌が成立したのであらうが、この歌はその語をたどりつゝ組織を合理的に調べようとすれば頗る不完全な形の歌であることは上に述べた所である。さやうに不完全な形でも盛んに用ゐられたのは之を傳誦する人々の間に合理的かどうかを問ふよりも感情の強調を感じて共鳴する所が多大であつたからであらう。かくして、この後には「ましませ」といふ形が無くなつてしまつた。それについてはなほ下にいふことがあらう。
第四の
君が代はちよにやちよにさゝれ石のいはほとなりて苔のむすまて
は第二の形から發展して生じたものであらう。その第二の形の歌の言句「我か君は」を「君か代は」と改めた形であることは著しいのである。この形になつた時代は上に略推定した所であるが、この形の生ずるにはその元の歌は第二句が「ちよにましませ」といふ形であつてはならぬ。若し第二句が「ちよにましませ」であつたら、首句を「君が代は」とすることは絶待に不可能である。「君が代は干代にましませ」といふことはいはれぬ筈であるからである。それ故に第二句が「ちよにやちよに」といふ形に一定した後の時代になつてはじめて首句を「君が代は」と變更し得たものだといふことは疑ふ餘地の無いことであらう。
第五の
君が代はちよにやちよをさゝれ石のいはほとなりて苔のむすまて
は第四の變形てあることは著しい。而して第二句を「ちよにやちよを」とした時はその「を」といふ格助詞に對應する詞が無くてはならぬのに、下には全然それが無い下の「さゝれ石のいはほとなりて苔のむすまて」といふ語では收まりがつかぬのである。假りにその下に在るべき語が省略せられたと考へて見ても收まる所が無い。何となれば「を」といふ格助詞は下に處分する意の動詞を以て對應すべき性質のものであるからである。假りにその語が省略せられて形を現さぬとしても、思想はその性質のもので無くてはならぬのである。然るにさういふ思想は「苔のむすまで」の下に含まれてあるべくも無い。卽ちここに「八千代を」とあるのは慣用久しきにつれて一般の人々がその合理性を問ふこともなくなつてしまつた惰性によつて生じた無意義の訛りだとすべきものであらう。
第六の
わか君はちよにやちよをさゝれ石のいはほとなりて苔のむすまて
は首句が古今集流布本の通りになつてゐるのに、第二句の末が「やちよを」となつてゐる。これは古今を通じてこの例一つである。しかも、これは名高い松永貞德の書にあるのである。さて、これは首句が「君が代は」である時には「やちよを」では意味が徹らないけれど、「我が君は」である時には強ひていへば、意味が徹らぬとはいはれぬやうである。それは、第七に見るやうに「千代に八千代を重ね給へ」といふべきを省略したのだといひうべき樣である。しかし、これは強言といはねばならぬから、やはり訛りである、それにしても一代の宗匠ともいはるゝ貞德がどうしてかやうな強言に似たことを行つたか、不思議なことである。之は或は貞德は古今集の 通りに
我か君は千代に八千代に云々
と書いておいたのを後人が、當時流行の形に紛れ、深く考へずに「八千代を」としたのかも知れぬ。何としてもこれは訛誤で採るべきもので無い。
第七の
君が代はちよにやちよをかさねつゝいはほとなりて苔のむすまて
も訛誤である。第二句の末を「ちよにやちよを」といふ時に、その「を」助詞の導きによりて「重ねつゝ」となるのは自然の勢である。隨つてそれはそれとして必ずしも語をなさぬとはいはれぬ。しかしながら、さうした爲に「さゝれ石の」といふ句が無くなつて、その下の「いはほとなりて苔のむすまで」の語は全然意味が無くなつてしまつた。何が「いはほとなりて苔のむす」のであるか、正體の無い寢言のやうなことになつてしまつてゐる。しかも、之は隆達節の小歌だといふ。隆達自筆の小歌の「君が代」は今我々の唱へてゐるのと同じ形である。それ故にこれは隆達節の小歌そのままでなく、世俗に無意味に傳唱してゐた際に訛つた形であつたらう。
かやうに見て來ると、この歌の形の中心になるものは卽ち今我々が國歌としてゐる歌であつて、それの訛誤が俗間に往々行はれて來たこともあるといふことを見るのである。
ここに私はこの歌が何時から行はれたものか、又本來どういふ意味をもつてゐる歌であるかといふことを考へて見よう。
この歌は既にいふ通り、古今和歌集卷七、賀歌の部の最初に揭げてあつて、
- 題しらす
- よみ人しらす
と標してある。或人は之を戀の歌だというたさうであるが、何を考へてゐるのか何とも了解し得ない事である。古今集には戀の部は卷十一から卷十五まで、五卷にわたり、三百六十首あげてゐる。賀の部は一卷で、歌の數は二十二首に止まるものである。若し、戀の歌なら戀の部に收めてある筈である。賀の部に戀の歌を收めてあるなどは眞に無稽の言といはねばならぬ。或は「君」といふ語が戀する女をさすといふのならば、その事實を明證せねばならぬ責任がある。無責任の言は學者の屑しとする所ではあるまい。之は古今集のしかも賀の歌の第一にあつて、しかも、その標本的のものでは無いか。戀の歌などといふことは古今集を讀んだことのある人の想像も及ばぬ奇說である。
さてこの歌はどういふ意味の歌であるか。本居宣長の古今集遠鏡はそれらの和歌を俗譯して初學者に端的にさとらしめたものであるが、この歌については次の如くに述べてある。
コマカイ石ガ大キナ岩ホニナツテ苔ノハエルマデ千年モ萬年モ御繁昌デオイデナサレコチノ君ハ
といふのである。ここに「我君は」をば「コチノ君ハ」と譯してある。之はこの「我君は」を以て、その祝賀を受ける人をさしたものであつて、それが專ら天皇をさしたもので無いことを思はしむるものがある。「君」といふ語は巖密にいへば天皇をさすに限るといふことにならうが、この歌にいふ「君」は祝賀を受ける人を誰でもさしてゐるといふことを本居宣長は我々に敎へてゐる。しかし、これ一首だけではこの古今集での「君」の意は獨斷に陷るといふ嫌が無いでもあるまい。ここにその賀の部二十二首のうちに「君」と云ふ語を用ゐてゐる所は如何なる意になつてゐるかを顧みる
賀の部二十二首のうち「君」といふ語を用ゐたものは
三四三我君は干世に八千世にさゝれ石の巖となりて苔のむすまて
三四四わたつ海の濱の眞砂を數へつゝ君か千年の有り數にせむ
三四五鹽の山さしての磯にすむ千鳥君か御代をはやちよとそ鳴く
三四六我齡君かやちよにとりそへて留めおきては思ひてにせよ
- 仁和の御時僧正遍昭に七十賀たまひけるときの御歌
三四七斯しつゝとにも斯にもなからへて君か八千代に逢ふ由もかな
- もとやすのみこの七十賀のうしろの屛風によみてかきける
- 紀 貫之
三五二春くれは宿にまつさく梅の花君か干歳のかさしとそ見る
- 素性法師
三五三古にありきあらすはしらねとも千年のためし君に始めむ
三五四ふして思ひおきて數ふる萬世は神そしるらむ我君のため
良峯のつねなりか四十賀にむすめにかはりてよみ侍りける
- 素性法師
三五六萬代をまつにそ君を祝ひつる千年の影にすまむと思へは
の九首である。これらのうち、さす所の明かで無く如何樣にもとらるゝ所と天皇又は皇族をさし奉つてゐる所とは今論ずることを要せぬから、その他のものを見る。三四七番は
- 仁和の御時僧正遍昭に七十賀たまひけるときの御歌
斯しつゝとにも斯にも長らへて君か八千代に逢ふ由もかな
これは光孝天皇が僧正遍昭に賜ひたる御製であるのだが、遍昭の長壽であらむことを冀ひ賜ひ、「君が八干代にあふよしもがな」と仰せられたのである。さうしてこの御製は上にある「我が君は千代に八千代に」の歌を下に踏んで詠ぜられたものと思はるゝ。さうでなくて行きなり「君が八千代に」と仰せらるゝことはあるまいと思はるゝのである。三五六番は良峯のつねなりの女にかはつて詠んだ歌だといふ、その良峯のつねなりといふ人は史上に名の無い人であるから地下人か、さなくとも五位ぐらゐに止まつた人であらう。さやうな人に對しても君と云つてゐる。さうすれば、「我か君は」の歌はさやうな人に對しても不當とはいはれないであらう。卽ち本居宣長の俗語譯は歌の眞意をよく酌んでゐるといはねばなるまい。
一體この古今集の賀歌はどういふ意味を以て集錄せられたものであらうか。香川景樹は古今集正義に之を說明して
さてそのかみより祝壽をのみ賀といひなれて賀歌といへば年賀の外ならず、世俗卽ち然り。今も全部のこらず、祝壽の歌にて只終の一首春宮の降誕をほぎ奉りてよめるのみ。さはいへ、是も雜部官位昇進など祝へるの類ならず、歌の意も寳算の永久をねぎ奉るの外に出ぬは上壽の方に屬して卷軸におかれたるなり。さるに、此集の賀歌を後世の祝歌とひとしく意得しより公任卿も朗詠に我君はを君か世はとして入玉へり 我君の詞優ならずとおもひてなり云々
と云つた。その朗詠集の歌の體についての說は必ずしも賛成しかぬるのであるが、それは姑く措いて、賀歌をば年壽を賀する意の歌だと云つたのは、正鵠を得てゐるであらう。古今集雜歌の中には正義にいふ通りはつきり祝ひの意を專らに示したものが無いとはいはれないけれども、それらは賀の歌として取らなかつた。この賀歌の部ではその詞書は十箇所あつて、
- 三四七仁和の御時僧正遍昭に七十賀たまひけるときの御歌
- 三四八仁和帝のみこにおはしける時に御をばのやそぢの賀にしろかねを杖につくれりけるを見てかの御をばにかはりてよめる
- 僧正遍昭
- 三四九堀河のおほいまうちぎみの四十賀九條の家にてしける時によめる
- 在原業平朝臣
- 三五〇さだときの皇子のをばのよそぢの賀を大井にてしける日よめる
- 紀これをか
- 三五一さだやすのみこのきさいのみやの五十賀奉りける御屛風に櫻の花のちる下に人の花見たるかたかけるをよめる
- 藤原興風
- 三五二もとやすのみこの七十賀のうしろの屛風によみてかきける
- 紀 貫之
- 三五五藤原三善が六十賀によみける
- 在原滋春
- 三五六良峯のつねなりが四十賀にむすめにかはりてよみ侍りける
- 素性法師
- 三五七內侍のかみの右大將藤原朝臣の四十賀しけるときに、四季の繪かけるうしろの屛風にかきたりけるうた
- 三五七 春
- 素 性
- 三五八
- 躬 恆
- 三五九 夏
- 友 則
- 三六〇 秋
- 躬 恆
- 三六一
- 忠 岑
- 三六二
- 是 則
- 三六三 冬
- 貫 之
- 三六四春宮の生れたまへりける時にまかりて
- 典侍藤原よるかの朝臣
とあつて、正義に論ずる通り、最後の一首だけが春宮降誕の御祝賀であり、他は皆次の通り
年壽を賀するものに限つてゐる。さうして見ると、その他の詞書の無いもの四首もやはり年壽を賀する歌であるべく思はるゝ。ことに、三五一の屛風の歌(藤原興風)
徒にすくるつき日はおもほえて花見てくらす春そ少なき
三五七以下七言の屛風の歌、ことにその三五八躬恆の歌
山高み雲居に見ゆるさくら花心のゆきて折らぬ日そなき
三五九友則の歌
珍らしき聲ならなくに時鳥こゝらの年をあかすもあるかな
三六〇躬恆の歌
すみの江の松を秋風ふくからに聲うちそふるおきつ白浪
三六一の忠岑の歌
千鳥なくさほの川霧たちぬらし山の本の葉も色勝りゆく
三六二の是則の歌
秋くれと色もかはらぬときは山よその紅葉を風そかしける
三六三の貫之の歌
白雪のふりしく時はみ吉野のやました風に花そちりける
の七首はその歌自體は祝賀の意味をあらはしてゐない。然るに之を賀歌の部に收め錄したのはそれを書いた屛風が賀の爲に用ゐられたからであるに相違無い之を以て推す時はこの部は年壽を賀する歌を收めたもので、最後の春宮誕生の賀の歌も春宮の春秋に富み給ふを祝賀したものであるから加へたものであらう。
かくして考へて見ると、この「君が代は」の歌は一般の人々の年壽を賀する歌であり、而してそれは天皇皇族に限らぬものであつたことは明かで、ここに至つてはどう考へても異論もあるべく思はれぬ。
この歌は既にいふ如く「よみ人しらず」の歌である。卽ち古今和歌集編集の時に作者の知れぬ歌であつたのである。「よみ人しらず」として勅撰集に載せてある歌には千載和歌集春上に載せた「故鄕花」の歌をば作者平忠度が勅勘の身になつたからその名を出すのを憚つて「讀人しらず」としたといふやうな特例もある。又作者の身分が賤しいので名をしるさぬといふこともあつたやうであり、又眞實に作者のわからぬ歌であつたのもあつた。いづれにしてもそれらは皆すぐれた歌であるが故に「讀人しらず」としても採錄した譯であらう。しかし古今和歌集に於いては上の場合よりも外の意味も加はつてゐる。萬葉集以後和歌の道が衰へて百年許、その間には撰集の事も行はれなかつた。古今和歌集はその百年間の衰を挽回する爲の企であつた。その空白、約百年の間、和歌は衰へたと云つても全く行はれなかつたのでは無く、その間に起つた歌も少くは無かつたのである。しかしながら、それらは多く作者の名を逸してしまつてゐたのである。古今和歌集にはそれらを收めて止むを得ず「讀人知らず」としたのであつた。それ故に古今集の「讀人知らず」とあるのは主として、延喜以前の古歌で、作者の不明になつてゐたものである。それらの歌の多くはその歌調も古く、大體萬葉調と古今調の中間に位するものと認めらるゝ。これらの事情を以て推すに、この「我が君は」の歌は古今和歌集編纂の時既に古歌として人口に膾炙してゐたものと思はるゝのである。
古今集の眞字序に
陛下御宇于レ今九載、仁流二秋津洲之外一、惠茂二筑波山之陰一、淵變爲レ瀨之聲寂々閉レ口、砂長爲レ巖之頌洋々滿レ耳。
とある。この「砂長爲巖之頌」といふは卽ち「我君は千代八千代に」の下句「さゝれ石の巖となりて苔のむすまで」をとつたものである。卽ち假名序は之に應じて
今はあすか川の瀨になる恨も聞えず、さゝれ石のいはほとなるよろこびのみぞあるべき。
と云つてゐるのである。さてその「淵變爲瀨之聲」とあるは假名序に「あすか川の瀨になる恨」に當るもので、これも亦古今和歌集に載せてある古歌に基づくものである。その卷十八雜歌下の卷頭に
- 題しらす
- 讀人しらす
世中はなにか常なるあすか川昨日の淵そ今日は瀨になる
の歌をさしたものである。これも雜歌下の卷頭にあつて賀歌の卷頭にある「我が君は」と相對映してゐるのである。古今和歌集雜歌の部は上下の二卷に分れてゐるが、上卷は主として積極的樂觀的の想の歌を集め錄し、下卷は主として消極的悲觀的な想の歌を集め錄してある。その雜歌下の卷頭に揭げたこの歌は有爲轉變の世のはかなきを慨く意味をあらはしてゐる。かくしてこの序文の意はさやうに世の有爲轉變を感じ慨くこと、又人々の萬歳の壽をことほぐことは歌としていづれも古より傳はつてゐるが今の御世は滿ち足りた世で、さやうに飛鳥川の淵瀨の易りやすいといふ嘆をすべく感ずることは無くなり「千代に八干代にさゝれ石の巖となりて苔のむすまで」と互に祝賀を述べあふ聲が到る處に聞ゆるといふのである。これはもとより醍醐天皇の御治世を謳歌する精神に基づいての詞であるに相違無いが、この「我か君は」の歌を以てたゞ天皇の萬歳を祝ふ意に止まるとするのは古今集の序の本意を十分に味うたものとはいはれぬ。
因に云ふ。本朝績文粹卷三、策に「詳和歌」に從四位下和歌博士紀朝臣貫成問に對して和歌得業生從七位上志摩目花園朝臣赤恒〔ママ〕(以上二人の名は假の名なり)の對策の文の中に
千代亦千代平沙長而期二苔蒸之巖一、萬歳復萬歳飛塵積而生二雲懸之山一
とある、その前半はこの「君が代」の歌に依つた文であるがこれは蓋し、古今集の序に基づく所のものであらうからここに附載する。 さて、上の古今集の序文には飛鳥川の淵瀨定めないことの歌と「我が君は」の歌とを對照的に用ゐるが、この二言共に「題しらず」「讀人知らず」でそれぞれ卷頭に載せてある。之を以て見ると、この二つの歌はいづれも古今集編纂の當時の作では無くそれよりも古くて、一般に人口に膾炙してゐたものであつたらう。それだから之を用ゐて、有爲轉變の世相を嘆くと年壽を祝賀するとの意を表する標本のやうに用ゐたものであらう。さうして考へて見ると、「我が君は」の歌は萬葉集までの古さはあるまいが、平安朝初期の頃に既に生じたものであつたらうと思はるゝのである。之は文獻としては古今集を最古とするけれど、古今集撰進以前から行はれてゐたものであらうことは疑ふべからざるものである。
なほその
我が君は千代に八千代にさゝれ石のいはほとなりて苔のむすまて
といふのと
我が君は干代にましませさゝれ石のいはほとなりて苔のむすまて
といふのとを比較すると既に論じた通り、「干代にましませ」といふ方が、はつきりしてゐるかはりに趣が淺い。それ故に「千代に八千代に」の方が歌として意味が深いといふことは上にいふ通りであるが、その新古を論ずれば「干代にましませ」の方が元で、「千代に八千代に」の方がそれを基にして一步進めた形であらうといふことは之も上に述べた所である。然るに、「千代にましませ」といふ本と「千代に八千代に」といふ本とが並び存することはどうかと思ふに、「干代にましませ」といふ古き形をそのまゝ傳へて來たものと、一步進めた「千代に八千代に」をとつたものと二樣に傳はつてゐたものと見ねばならぬ。然らば「千代に八千代に」は何時頃のものかといふことも一往考へねばなるまい。
惟ふに、これは二樣に行はれてゐたのをその「千代に八千代に」の方をとつたのか、或は古今集撰者が「千代に八千代に」と變へてとつたが爲に二樣になつたのか。大體この二つの場合が考へられてくる。
上にも引いたこの賀歌の部にある光孝天皇の僧正遍昭に賜はつた御製に
斯しつゝとにも斯にも長らへて君か八千代に逢ふ由もかな
とある、その「君か八千代に逢ふ」といふ詞は何としてもこの「我が君は千代に八千代に」といふこと若くはそれと似た歌が先行してゐなければならない有樣のものである。又その歌の上にある。
三四六我か齡君かやちよにとり添へて留めおきては思ひ出にせよ
といふ場合の「君かやちよ」も同樣である。それ故に、私はこの二つの歌共に「我か君は千代に八千代に云々」の歌を知つてゐて、それを基にして詠ぜられたものであるからそれらよりも古い時代に既に「千代に八千代に」といふ形になつてゐたものと思ふ。
光孝天皇の御製は僧正遍昭の七十賀に賜はつたのである。遍昭は寬平二年に七十五歳で歿した人であるから、その七十賀は光孝天皇の仁和元年(一五四五「八八五」)である。されば、この「千代に八千代に」といふ形の歌は光孝天皇の御世のはじめに一般に行はれてゐたと推定せらるゝのである。隨つて「干代にましませ」といふのはそれよりも更い古い時のものであらう。
「我が君は云々」といふ場合の意味は既に述べた通り、それは誰人にもその人の壽を賀する場合にいうたものである。然らばその初句を「君代は」としたのはその元の歌との間に意味の異同があるか、どうかといふ問題がある。
之は上に述べた樣に、朗詠集には鎌倉時代に既にあらはれ、又拾玉集に引いた古今集にもあらはれてゐるが、その「君が代」といふのはその當時如何なる意味を示してゐたかを考へて見ねばならぬ。
「君が代」といふ語は萬葉集に既にあらはれてゐる。卷一、中皇命往子紀伊溫泉之時作歌
一〇
君之齒母吾代毛所知哉磐代乃崗之草根乎去來結手名
とあるのがその一、この「君之齒」は君が年壽をさし「吾代」も己の年齡をさしたものであることは古來異論のなきところである。卷十四
三四四八
波奈知良布己能牟可都乎乃乎那能乎能比自爾都久 佐⃞[3]麻提伎美我與母賀母
とあるのがその二、これも君が壽命の長くあれと冀うたのである。
私は上に古今集、後撰集にある「君が代」とある歌及び拾遺集以下新古今集までの賀部に見ゆる「君が代」といふ語を用ゐたものをすべてあげておいた。それらの歌には天皇を謳歌したものも少くは無いが、それらは今論ずるまでもあるまい。又その對者が明かで無いものも少く無いが、それらは水掛論になるから今觸れぬ。ここには明かに臣下に對して「君が代」と讀んだ歌が有るか無いかを檢して見よう。
拾遺集賀の部に先にいふ通りに
- 淸愼公五十賀し侍りける時の屛風に
- 元 輔
君か代を何に譬へむさゝれ石の巖とならむ程もあかねは
とある。これは「我か君は千代に八千代に」の歌によつたことの著しいものであるが、その「君が代」といふは淸愼公實賴に對して云つたので、實賴が五十歳の時は左大臣だつた天曆三年でその折の歌である。又金葉集賀の部に
- 宇治前太政大臣の家の歌合に祝の心をよめる
- 中納言通俊
君か代は天つ兒屋根の命より祝ひそ初し久しかれとは
- 大藏卿匡房
君か代はくもりもあらし三笠山みねに朝日のさゝむ限は(この歌詞花集に重出)
宇治前太政大臣は藤原賴通である。千載集賀部に
- 俊綱の朝臣さぬきの守にまかりける時祝の心をよめる
- 藤原孝善
君か代にくらへていはゝ松山の松の葉數はすくなかりけり
俊綱は橘氏、四位修理大夫に至つた人である。これらの人々にも「君が代」と歌ふのである。卽ちこれらの「君」は天皇をさすには限つてゐない。
さて上の如く、天皇に對し奉つては御治世といふ意味にはなるが、平人に對した時はその「君が世」は萬葉集以來の傳統のまゝその對者の年壽をさしたものであるのは爭ふべからざるものである。この場合の「世」といふ語の意は年壽をさしたものである。和名類聚鈔に竹具の部に「兩節間俗云與」とあるその
「君が代」を上の如き意に用ゐたものとする時は「君が代は」の歌も「我が君は」の歌も大差無いものであるからいつの間にか「君が代」となつたことも首肯せらるる。加之「君が代」が君が齡といふことだとすれば「我君は」といふよりは「君が代は」といふ方が意味が深くなり、又下の「千代に八千代に」と照應するので趣があるから、之は改めてよくなつたことになると思ふ。
とにかくに、上の如くにして、恐らくは「君が代は」といふ形の歌として汎く行はるるやうに到つたものであらう。而して之を朝廷に用ゐれば天皇の萬歳を賀することになるが、之を一般民衆に用ゐる時はその當事者の間に於いてその人の健在長壽を冀ふ意によつて祝賀の意を表することになるであらう。之をただ天皇の萬歳に用ゐるのみのものだとするのは原意を知らぬものといふべく、さうして又これを民主主義に反した思想を表した歌だとするものも、その人の無智なることを表示するに止まると評すべきものであらう。
これからこの歌が古來どの樣に取扱はれて來たかを顧みよう。この事を說くには大體上の七樣のものを差別せずに說くことにし、必要の生じた時だけにその差異に說き及ぼすこととする。
古今和歌集賀歌の卷首にこの歌を揭げてあることは既に屢說いた。貫之が勅命に基づいて古今集に基づき更に淸撰して編纂した新撰和歌集第三の賀哀の賀の部の卷頭にも之を揭げてゐる。これはその古歌であるのとそのめでたさとによつてであらう。忠岑の和歌體十種には神妙體の例歌五首のはじめにのせてゐる。これはすぐれた歌だからであらう。古今和歌六帖卷四の「いはひ」の部には七十六首の歌を載せてあるが、その筆頭にこの歌を揭げてある。これは古來いはひの歌の第一として來たことを示すものであらう。藤原公任は一條天皇の御代の博識にして四納言の隨一といはれ、歌學では貫之以後の大人物で、以後二百年間歌學の大宗と仰がれてゐた人である。その會心の歌を集めて深窓祕抄と名づけたその載する所一百一首、その最終にこの歌を加へてある。之は世を祝する意を表したものであらう。同じ人の著した和漢朗詠集には卷下の祝の部にこの歌を載せてあることは既に述べた。
榮花物語卷五、日蔭のかつらの卷に寬弘八年六月三條天皇賤祚十月十六日御卽位あり、翌長和元年十一月大嘗會の時の主基方の辰日節會の樂の參入音聲は丹波のさゝれ石山を詠じた歌で
數しらぬさゝれ石山ことしよりいはほとならんほとはいくよそ
といふのであるが、その「さゝれいし山」といふ名に基づいてこの歌をとりこんだのであらう。
藤原爲賴(長德頃の人)の集に
- むまこのいたゝきもちゐを見せたれば
年をへて數まさるへきさゝれ石の巖とならんほとをしそ思ふ
といふがある。之も、この歌に基づいてその長壽あらむことを祝したものである。
鎌倉時代に入つても、同じく祝賀にこの歌が用ゐられた。建久三年の皇太神宮年中行事の六月十五日の贄海神事に海路にありての歌二首、その一首は
和賀 君ノ於波志萬左牟古止者左々禮 石ノ伊波保止奈利 テ古遣 ノ牟須萬天
とある。之は「君が代は」の歌の下句を下句としたものであるが、上句は形をかへてある。その上句の形は拙いが意味は元歌とかはらぬつもりであらう さてそれより歸參して又奏する神歌四首、その一に
我君ノ命ヲ乞ハ左々禮石ノ巖ト成テ苔ノ
生萬天 惠伊邪 々々々三反
とあるが、之も同樣である。
又その頃盛んに行はれた南都興福寺の延年舞にもこの歌が用ゐられてゐた。その舞の式は委しく傳はつてゐるが、その間に遊僧拍子の歌といふものがある遊僧とは色々の裝束を著た法師の歌舞を演ずるものをいふのである。その歌八首ありいづれも太平の象若くは祝賀の意の短歌であるがその第四首はこの歌である。その遊僧拍子の歌は
ヤアラソヨヤ三笠山松ふく風の高ければ、空に聞ゆる
萬代 の聲、ヤレコトウトウ萬代の聲
百敷の大宮人は暇あれや櫻かざして今日もくらしつ
三千歳になるてふ桃の今年より花咲く春に逢ふぞ嬉しき
君が代は千代に八千代にさざれ石の巖となりて苔のむすまで
白妙の衣の袖を霜かとて拂へば月の光なりけり
君はただ心のままの齡にて千代萬代の數も限らず
霜こほる袖にも影は殘りけり霧よりなれし有明の月
いかばかり神もうれしと三笠山二葉の松の干代のけしきは
といふのである。今傳ふる舞の式は平三品時章卿の藏書を橘經亮が寬政元年に寫し傳へたものであるが、古式を傳ふるものであるから、古今大差無いであらうそれ故にそれらの短歌は古のままに傳へてゐたと思ふ。又伴信友の編した中古雜唱集には
- 南都興福寺延年舞唱物三反初重二重三重
きみが代は千代に八干代にさゞれいしのいはほとなりてこけのむすまで、やれことおどふ、こけのむすまで(やれこ云々は囃詞である)
右南都興福寺當職大乘院門跡家司多田長門守仲連傳古歌皆准之唱也
寬政元己酉年六月下向ノ時傳レ之、舞ハ興福寺一山衆徒等ニ傳フ、古風ニ今行レ之
とある。卽ち、この歌が延年舞に伴うて缺くべからぬものであつたことを見るのみならず、他の歌は用ゐられなくなつてもこの歌だけは必ず謠はれたことを見るべきであらう。而してこの延年舞の力によつて「君が代」の歌の生命も後世に傳はるに至つたことも大であらう。
以上の如く鎌倉時代には神事にも佛會にもこの歌を唱へたことを見るのであるが、この頃より後には「我が君は」の形は一般に用ゐなくなつたことは既に述べた所である。卽ち室町時代に入つての和歌披講の例に用ゐた歌はいづれも「君が代は」の歌であつた。(文安の朗詠九十首抄、天文十七年書寫の梁塵祕抄、樂說紀聞、享保十八年、書寫の朗詠等)之はその歌が代表的標本的の和歌として人口に膾炙してゐたことを語るものであらう。
田樂は神事の田舞に源を發して別途の展開をして獨立の歌舞となつたものらしく思はれてゐる。榮花物語には後一條天皇の治安三年に行はれた田舞そのものといふべき田樂が記述せられてある。それより降つて次第に盛んになり、堀川天皇の永長元年には洛陽田樂記に見るやうな大規模のものとなり、之を專業とする田樂法師といふもの生じ、つづいて鎌倉時代にその田樂法師に本座新座の別を生じ、室町時代には田樂能といふもの盛んに行はれ、その曲も多く、猿樂の能の先驅をなしたものである。後には衰へたが、江戶時代には和泉國大津村に之を傳へ、地方にはその舞と詞章とを傳へ來た。その田樂能に菊水といふ曲がある。之は長い曲で、猿樂の謠曲「菊慈童」の基となつたもので、それに比べて優るとも劣らぬものである。その曲のはじめに
君が齡は久堅のつきせぬ御代ぞめでたき、抑是は魏の文帝に仕へ奉る臣下なり。扨も我君いまだ若年の御位なれども民を憐み給ふ事三皇五帝の御代にもすぐれ給へり。目出度御代にて候へば山々の仙人急ぎ參內せよとの宣旨をかうぶり只今、鐵劍山へと急侯。
君か代は千代に八干代にさゝれ石〱、岩ほとなりて苔のむすまで、幾歳になるみがた、幾代つもりて程もなく鐵劍山に著にけり。
とある。ここにも「君が代は」の歌が利用せられてあるのである。
曾我物語にも此の歌があることは上に述べたが、それはどういふ場合であつたかといふに、その卷六の「五郎大磯へ行きし事」の條に、大磯の遊所にて和田義盛一族百八十騎打ち連れ酒宴を催し、名高き遊君虎を呼べども、虎は曾我十郎祐成が心をかねてその席に出づるを嫌ひ、ここに曾我十郎と和田義盛との爭ひとなつたが、義盛の子朝比奈三郎義秀が父の使として曾我十郎が許に至り、懇に請ひければ十郎心和ぎ虎と共に、和田義盛に對面して一旦事無きを得たのである。しかし、虎がその請けた盃をば義盛にさゝずして十郎にさしたるより、座敷白けて大事出で來んと思はれた所に五郎時致が兄の事心もとなく胸さわぎしたるまゝに大磯に馳せ參じて兄十郎の身を蔭ながら守つてゐるのを朝比奈之を推し、由なき爭を無からしめむとて出で舞ふときの事である。その文は
まことや彼等兄弟は兄が座敷にある時は弟が後ろに立ち添ひ、弟が座敷に在る時は兄が後ろに在るものを。如何さま五郎は後ろに在りと覺えたり、さしたる事も無きに、大事引き出だして何の
益 か有らん。又然 りとは親しき仲ぞかし。何と無き體にもてなし、座敷を立たばやと思ひければ、紅に月出したる扇をひらき、「何とやらん御 座敷靜まりたり、謠へや、殿原、はやせや、舞はん」とて、既に座敷を立ちければ面々にこそ囃しけれ。義秀拍子を打ち立てさせ「君が代は千代に八千代をさざれ石の」と絞り上げて「巖と成りて苔のむすまで」と短く舞うて納めけり。
とある。之によると、酒宴のめでたく終るときその祝としてこの歌をうたひつゝ舞ひ以て千秋樂としたものと思はるゝ。
義經記卷六に靜御前が鎌倉へ下り、やがて鶴岡八幡宮に參詣し終に賴朝の前にて舞うた記事がある、その中にもこの歌をうたうたことがあつた。それは「靜若宮八幡へ參詣の事」の條にある事である。その舞の時には畠山重忠笛、梶原景時銅拍子、工藤祐經鼓にて伴奏したのであつた。その記事は
靜其日は白拍子は(歌曲のこと)多く知りたれども殊に心にそむものなれば、しんむしやうの曲と云ふ白拍子の上手なれば、心も及ばぬ
聲色 にてはたとあげてぞ歌ひける。上下あと感ずる聲雲にも響くばかりなり。近きは聞きて感じけり、聲も聞えぬもさこそあるらめとてぞ感じける。しんむしやうの曲、なからばかり數へたりける所に祐經心なしとや思ひけん水干の袖をはづしてせめをぞ打ちたりける。靜「君か代」を歌ひあげたりければ人々是を聞き「情なき祐經かな、今一折舞はせよかし」とぞ申しける。
とあり、それから靜が二度、舞うて有名な
しづやしづしづのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな
よしの山みねの白雪ふみわけていりにし人のあとぞこひしき
の歌をうたうたのであつた。上に祐經が「せめを」打つたとある、その「せめ」といふのは「せめうた」の事であらう。歌舞品目七上責歌の注に「初は乙にて歌ひ、後度に甲にて歌ふを責歌と稱す」とある通り、歌の終に近づいたことを示す爲に鼓の調子を急にしたことを示すものであらう。そこで靜はそれに應じて「君が代」を歌ひつゝ舞うたが、聽衆はそれを認めずして靜に更に舞ふことを要求したのであつたが、我等はここで「君が代」の歌が如何に取扱はれてゐたかを見るのが目的である。この點から見れば、この場合も曾我物語の場合もすべてその最終の舞納めの歌として用ゐられてゐたことを見るのである。尤もここに「君が代」とだけであつて、第二句以下が示されてゐないから別の歌で無かつたかといふ意見もあるかも知られないが、前後の多くの例でこの歌をさしたと見るが妥當である。
結城戰場物語にもこの歌があることも上に述べた。これは鎌倉公方持氏が亡びた後その遺兒春王、安王を奉じて結城氏朝が兵を擧げたが京勢に攻められて結城は落城し、氏朝は戰死し、春王安王は捕へられ、長尾因幡守の手に警固せられて京都に送らるゝ途中、美濃國靑野が原にて二人を道にて失ひ首を取りて京に來れとの京都よりの使に逢ひ、垂井の宿にて最後を遂げる事になつたが、その際にそこの道場に入ると、そこにて遊行上人に逢うて敎化を受けて後、最後に近づきたる際に種々の酒肴の饗をうけたるが、その文には
既に宴初りけり、三獻の酒過れば春王殿御覧じて、上人の御前にて我等さいごの舞まうて御肴申さんとて春王殿立給へば、安王殿も御立あり、相舞をこそ舞れける。
とあり、その舞はてゝ後は
かくて御兄弟御座敷に直らせ給へば、いなばの守御盃を參らせて立て舞をぞまうたりけり「君か代は千代にや千代をさゝれ石」と舞たまひければ、安王殿とりあへず「千代と云は八千代と云も餘りあり、一夜にたらぬわが命哉」かやうに詠給ひて御酒過ぬれば春王殿因幡守をめされて云々
とある。之を見ると、その死を前にしての酒宴にもその死する人との別れを惜むに「君が代」を歌うたのである。以上の三の場合を通じて見るに「君が代」の歌は汎く普通に民族歌として行はれてゐて特別に祝賀の意無くしても歌はれたことを知るべきである。
御伽草子を見ると、上の事が一層著しく見らるゝ。「さゝれ石」といふ草子は、この「君が代」の歌を骨子にした物語で、その趣向は
成務天皇に三十八人の皇男女あつたが、その末の姫宮をさゝれ石の宮といふ。この宮十四歳の時攝政殿の北政所となつたが、東方淨瑠璃世界に生れんことを願ひ藥師如來に祈つてゐた。ある夕に金毘羅大將が藥師如來の使として降り、瑠璃壺に不老不死の藥を納れたのを授くる。此壺に
君か世は千代に八千にさゝれ石のいはほとなりて苔のむすまで
と記してあつた。これは藥師如來の御詠歌であらうといふ。それより宮の名を改めていはほの宮といふ。この藥を嘗め給うてから淸寧天皇の御代に至るまでいつも若く美しき姿にて榮え給ひしが或る夜藥師眞言を念しおはしける時藥師如來來りて宮を導きて淨瑠璃世界につれ行き給ふ。
といふのである。これは藥師如來の信仰を勸めた物語だが、その宮の名をこの歌の詞にとり、この歌が不老不死を祝する意を示すにより、不老不死の實を現す物語としたものである。之を以て見ても、この時代にこの歌が如何に行はれ、如何に思はれてゐたかを知るべきであらう。
御伽草子の一に唐絲草子といふがある。之は木曾義仲の臣手塚光盛の娘唐絲といふ者琵琶箏に堪能である故を以て鎌倉の賴朝の御所に仕へてゐたが、壽永二年の秋木曾義仲が上洛して平家を追ひ落したる後、京にて狼籍をなす由を賴朝が聞いて、先づ義仲を討つべしとて準備してゐるのを唐絲が聞いてその由を京の義仲に通じ、なほ義仲の下知を待つて賴朝を暗殺〔ママ〕せうとして、機會を伺うてゐたが、事露はれて唐絲は捕へられて松が岡の尼寺に預けられた。松が岡の尼公は唐絲を生國信濃に逃れさせた所、途中武藏國六所といふ地にて梶原景時に逢ひて再び捕へられ、鎌倉御所の裏の石牢に入れられた。信濃國には六十に餘る老母と十二になる娘とがあつた。その娘は萬壽と名づけれた。母の牢舍した由風聞が傳はつたので大に驚き悲み、何とかして救ひ出さうとして、乳母の更科を從へて鎌倉に上り、鶴岡八幡宮に母の身の上を祈り、身分をかくして賴朝の北の臺に奉公しつゝあるうちに、唐絲の幽せられてある牢をさとり、暗に之を養ひつゝあつた。翌年正月鎌倉御所に喜ありて、鶴ヶ岡八幡宮に十二人の手弱女を召して今樣を謠はせて神德を稱ふる事となつたが、十一人の娘を得たが、今一人足らずして終に萬壽をすゝむる事となつた。さて當日正月十五日になりて、神樂を奏して各今樣を歌ひつゝ舞うた。萬壽は五番のくじに當つたが、大に喝采を博し、賴朝に甚しくめでられたが、その賞として母の赦免を請ひ、容されて母を伴ひて信濃に歸り子孫繁昌したといふ物語である。その萬壽が舞の詞は次の如くであるが、それは二段落であると思はるゝ。先づ
鎌倉は八つ七かうとうけ給はる。春はまづさく梅がやつ、扇の谷にすむ人の心はいとゞしかるらん、あきは露おくさゝめがたに、いづみふるかや雪のした、萬年かはらぬかめがへの谷、つるのからこゑうちかはし、ゆひのはまにたつなみはいくしま江のしまつゝいたり。江のしまのふくでんはふくじゆかいむりやうのほうじゆをいだき、參られたり。「きみかよはさゝれ石のいはほとなりてこけのむすまで」
以上で一段落であらう。さうしてその段落の終りに「きみかよは云々」と歌うたのであるが、ここには「千代に八千代に」が略せられてある。これはわざと略したのかとも思はるゝことは下に言ふ所があるが、とにかく謠や舞の終りにこの歌をうたふといふ方式によつたものであらう。さうしてすぐそれにつゞけて次の歌を唱へたのであつた。
たかさこやあひ生のまつ萬歳樂に御いのちをのぶ。とうぼうさくの九せんざい、うつゝらの八萬歳、ちやうみうこじの一千ざい、西王母の園の桃三千年に一度はなさき、みのなると申せども、相生の松にしくことさふらふまじ。そもそも君は千代をかさねて六千歳さかえさせ給ふべき。かほどめでたき御ことに相生の松がえ、ふくじゆむりやうのよろこびを君に捧げ申さん。
と唱へつゝ小松の枝をゆりかづきて、二三度、四五度舞うたので賴朝が大きにめでほめたといふことであつた。元來これは鎌倉御所の座敷に小松が六本、疊の緣に根をさして生ひ出でたのをめでたい事だと占つたので、その六本の相生の松を鶴岡の社の玉垣の內に移し植ゑてそれを祝ふ爲に催したのであるから、萬壽が小松の枝を持ちつゝ舞うたのであらう 而して前段には專ら鎌倉の景勝の地であることを祝しほめたのであつて、その段落の末に「きみかよは」云々と一旦祝ひ納めて、更に端を新にしてその相生の松のほめ詞を演奏したのであらう。而して、前段の末に「君か代はさゝれ石のいはほとなりてこけのむすまで」と謠ひ納めたが、そこには「千代に八千代に」といふ詞をわざと殘しておき、後段の相生の松のほめ詞の中に「千代に八千代に」の意を表して「そも〱君は千代をかさねて六千歳さかえさせ給ふべき」といひ、以て前段の末に照應せしめたものであらう。それ故に之も「君が代」を以て祝ひの歌の未を飾つたもので、曾我物語、義經記、結城戰場物語の場合と同樣の取扱になつてゐることは明かである。
謠曲に於いては「春榮」「吳服」「老松」「弓八幡」「養老」の諸曲に「君が代」の曲を利用してゐることは上にも述べた そのうち老松養老、吳服にあつてはその歌の詞によつて文章を綾なしたものであるが、弓八幡にあつてはシテが
君か代は千代に八干代にさゝれ石の巖となりて苔のむす
と謠ひ、末の「まで」をば次の「松」にかけて、シテツレ二人が
松の葉色も常盤山、綠の空ものどかにて、君安全に民あつく、關の戶さしもさゝざりき
と謠ふのである。特に見るべきは春榮の曲である。この曲は武藏國の人增尾春榮丸と云ふ少年が近江で合戰の時打敗けて敵の虜となり、高橋權頭といふ者に預けられ伊豆國三島にゐたのを、春榮の兄の種直が三島に來て弟の身代りになり殺されようといふ。春榮はどこまでも兄たる事をかくさうとするけれど、たうとう事が露はれて兄弟共に首の座に直つた所に鎌倉から早打が來て赦免せらるゝことになつた。高橋權頭は子が無くて早くから春榮を己が養子にしたい志があつたけれど、勝手の事が出來ず默止してゐたが今度赦免になると共に養子にしたいと望んだ所兄弟共に之を承諾したので春榮がめでたく高橋の養子になるといふ筋である。そこで最後にその祝賀の宴となる。その文は
猶々めぐる盃の度かさなれば春榮もお酌に立ちて親と子の定めをいはふ祝言の千秋萬歳の袖の舞ひるかへし舞ふとかや。シテ千代に八干代にさゞれ石の地「いはふ心は萬歳樂
とある。これはかやうな祝言の時に「君が代」を歌ふものであつたことを我々に知らしむる重要な例である
能と共に演ぜらるゝ狂言にも往々この歌が用ゐらるゝ例を見る。先づ「引敷聟」の曲を見る。これは物を知らぬ聟が舅の方へ聟入をせうとして出で立つたが、裃の上ばかり着て下を着ぬので、それでは無調法だといふので、或る人が敎へてそれに上を下と見ゆるやうに著せて後に引敷を當てゝごまかしてやつた。それの敎のまゝに舅の方に聟入りの儀を行ひはしたが、酒宴のはてに舞を所望せられて致し方無く舞ひ、後の引敷を見つけられて面目を失ふといふ筋であるがその舞ひにつれて歌ふ詞は春榮のと同じく
千代に八干代にさゞれ石の祝ふ心は萬歳樂
と云ふのである。又相合烏帽子といふ(丹波の百姓と丹後の百姓とが烏帽子を許さるゝといふ)曲にも目でたい事のしるしとて舞立ちにする、その際のこととして謠ふ詞は
丹後「千代に八千代をさざれ石の 丹波「君が齡は 兩人「萬歳樂云々
とあつて前の引敷聟の場合と略同じである。これらいづれもめでたい時の歌として用ゐてゐる。
上のやうに祝賀の意を表するにこの歌をうたふことは、汎く一般に行はれたことはかの古今集の時代と同じで一向に變化もしてゐなかつたのである。さうして、その酒宴の場合の終りにうたふことは上にあげた曾我物語以下の諸書に通ずるところである。かやうな風はかの藤原公任の深窓祕抄の最後にこの歌を記したのと精神が相績いてゐる。これを以て見ると松永貞德が戴恩記の卷末に
わか君はちよにやちよをさゝれ石のいはほとなりてこけのむすまて
とあるのも世を睨ふ意で加へたものであることは著しいのである。
以上は最後にこの歌を歌ひ、又は書き加へた例だが、また之を最初に擧げたものもある。それは上にもあげた隆達の小歌の自筆本である。之はいづれの本にもさうであることは既に述ぶる所である。又編笠節の小歌を寫した本も「君か代」を以てはじめにおいた。これらはそれが祝賀の歌だから最初においたのであらうこの精神は古今集の賀歌の初めにこの歌を揭げ、古今和歌六帖の口はひ」の部の初めにこの歌をあげたことと同じ精紳であらう。
さて上の如くにして室町時代を經過し、江戶時代のはじめ頃この歌が小歌として一般人に吟ぜられたことはうらみの介の草子によつて知らるゝ。この草子はその文のはじめに「頃はいつぞの事なるに、慶長九年の夏の末」とある。卽ち江戶幕府の極初期の事である。その文は
當世はやりけるりうたつぶしとおぼしく、ぎんじたまひけるは
君か代は千代に八千代をかさねつゝいはほとなりて苔のむすまで
とあるのであるが、實際の隆達の小歌ではその歌は「千代に八干代にさゝれ石の」となつてゐて、その自筆本ではいづれも、この歌を卷頭に記してあつたことは上來屢說いた所である。
江戶時代でその最初期からかやうに一般に口遊みになつてゐたから、その後の俗謠類に頻繁に取り入れられたのであらう。
先づ小唄の類では落葉集(元祿十七年三月版)卷一にある古來十六番舞蕭歌と題した一群の第三番「君千歳」の曲は
君千歳山、それは昔のさゝれ石、巖に生ふる苔の色はとにかくに、君と我が仲よも盡きじ
といふのである。之は「君が代」の歌を基にしたことは明かであるが、これは元來元和頃に流行した「業平をとり十六番」に源があるので、その十番が上の歌なのである。而して、これは亦その卷三の曾我五郎の曲に
君千歳山それや昔のさゝれ石巖と成ていつまで變らぬものは常盤本の葉色に迷ふ人心
とあるのは上の「君千歳山」の曲に基づいてゐる。又その卷三の八幡詣出端の中に
伊達 な姿の男山〱引く手數多の梓弓、やたけ心に我が戀の巖となりていつまでも君が八千代は盡すまじ〱、とかく棄てぬは女郎花結ぶ契は千歳山花の情は猶盡きじ
とあるは上の「君千歳出」の詞に更に「君が代は」の詞を加へたものである。
長唄では難波獅子の曲に
君か代は千代に八千代に、さゞれ石のいはほとなりて苔のむすまで、立ちならぶやつをの椿、八重櫻ともに八千代の春にあはまし、高き屋にのばりて見れば煙立つ民の竈は賑ひにけり
とある。之は 三首の和歌を綴り合せたもので、その第一が「君が代」の歌である。又竹生島の曲には
千代に八千代にさゞれ石、巖となれや八幡山
とあるが、これは上にいふ八幡詣出端と關係があるやうに思はれる。又駿河名所といふ曲には
實に豐年の貢とて降り來る雪は地の限り積ればちりも山川の汀に生る
小石 巖となりて苔のむすまで
とあつて、この歌の詞をとり、老松の曲では
千代に八千代にさゞれ石の巖となりて苔のむすまで
と「君が代」の首句だけを略して第二句以下をそのまゝとり用ゐてゐる。又「若みどり」といふ書の第一卷長歌の第二首新藻鹽草の曲には
幾春每に祝ひ來て
壽 き歌ふ春駒の齡 久しきさゞれ石、苔むす野邊の末まで
いひ、第三首の「さゞれ石」といふは曲の名の示す通り「君か代」を主とした曲であり、その冒頭は
さゞれ石巖となりて二葉の松も生ひ添ひて千代の始めは、千代の始めは面白や、君が世の久しき國や、四つの海岸打つ浪の靜かにて云々
と云つてゐる。
箏唄の鶴の巢籠といふ曲はこの「君が代」の歌を首章とし、
君が代は〱千代に八干代にさゝれ石のいはほとなりてこけのむすまで
といふを以てはじめてある。又蓬萊といふ曲はその終りを
枝はふりても松風は千秋の聲、年もやう〱吳竹の幾代かふべき長生殿、老せぬ門に立ちかへる春を數ふるさゞれ石の巖となりて苔のむすまで
としてある。
以上の外一中節では「老松」の曲に
千代に八千代にさされ石の巖となりて苔のむすまで
をとり入れ、河東節では「松竹梅」(一名、老松)に
かやふに名高き松梅のかはらぬ中の
二 木とて枝さしかはし諸共に千代に八千代にさゞれ石苔のむすまで鶴龜のよはひもながく常 いはのかたくちぎりを結び帶
といひ、常磐津では子寳三番叟に
千代に八千代に
小石 の動かぬ御代こそめでたけれ
と云つてゐる。
文政五年に松井讓屋の編した「浮れ草」(三卷)といふは當時京坂地方に流行した唄を集めたものであるが、その卷上に竹生島といふ曲の首に
去程に又是は勿體なくも竹生嶋辨財天の御由來委敷是を尋ぬるに、津の國浪花の天王寺佛法最初の御寺にて本尊何かと尋ぬるに、靑面童子で庚申、聖德太子の御建立、三水四石で七
不思議 、龜井の水も底淸く、千代に八干代にさゞれ石の巖となれや八幡山云々
とうたひはじめてゐるが、これは上にあげた長唄の竹生島をとり用ゐたのであらう。「伊勢音頭二見眞砂」は天保頃に編したものといふが、その放下僧といふ曲は最後を
うち治まりし君が代の千代に八千代に世も盡きじ、昔も今も、え、
として閉ぢてゐる
以上は俗曲にあらはれてゐる例であるが、淨瑠璃にも屢用ゐられてゐる。
先づ公平淨瑠璃では「公平化生論第一」に(賴義公の前にて)
中に公平かうをんに「とうとうとなるはたきの水いつもたへせずおもしろや、取上源家の御代をまんさ〱〱まんさいらく」とぞうたいける。君たいゑつき限なく御聲を上らるれば大小みやうもたうをんに「君ちとせふるいわをと也てこけのむすまで代〱をかさねてめでたや」と皆々御いとまをたまはりせんしうらくをつらね、我や〱へ歸られける。
とあり、ここに宴の席のお開に「君が代」の曲をうたうた名殘を示してゐる。又「賴光あとめろん」第四の末に
らいくはう御ゑつきまし〱ておほめでたやと御きげんよろしく候へければ、其時にあまをとめ、しほきのおきなもろ共に「きみか代は千代にや千代をさゝれいし」としうげんうたひ立ければ、ざちうに有し諸大名皆万ぜいをとなへつゝ、千しうらくはたみをなで、萬ざいらく命をのぶ。賴光の御いせいめでたかり共中〱に何にたとへん方もなし。
とある。これ亦祝言の席に、その祝ひ納めに、この歌を唱へたことを示してゐる。
又近松が淨瑠璃にも屢あらはれてゐる。先づ花山院后諍の第五(終の曲)に今樣舞の事があり、
竹の園生の末かけてめでたき御代の例にも引くや子の
日 の姫小松、千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむす迄、萬歳樂と呼ばふなるつると龜との齡をば重ね重ぬる舞の袖
と見え、源氏烏帽子折には第五のはじめに
君が代は千代に八千代に榮えます、とよはた雲や伊豆の國蛭が小島におはします右兵衞の佐賴朝は盛長一人配所の伽、
とある。又兼好法師物見車上に繪馬の話に
夫婦諸共立塞がり、これ〱〱金王ばかりで寂しくは、あれ御覧ぜ、薙刀もつたは靜御前、弓を引くは泉が城、自らそれとは恐れながら、八幡宮の御母御、鬼界高麗
百濟國 のあらき夷を攻滅してかへる君が代、千代に八干代にいはほに弓をおつとりのべて異國の王も師直も犬に劣つた今の世の梶原が讒奏にて云々
とある。これらは行文の上に利用したのである。
近松以後の淨瑠璃にも屢利用せられてある。先づ金屋金五郎後日雛形(寳永二年、作者未詳)にはその冒頭の文として
所千代までおはしませ我等も千秋さぶらふ。鶴と龜との齡にて幸ひ心に任せたり。千早振る神のみことの昔より久しかれとぞ祝ひけり。そよやりいちやとんどや、凡そ千年の鶴は萬歳樂と謠うたり、又萬代の池の龜は甲に三極を戴いたり。瀧の水、冷々と落ちて、夜の月鮮かに浮んだり。渚の
沙索 々と散つて朝の日の色をあふす。天下太平國土安穩、五穀成就、君民 ゆたかに治まる御代。千代に八千代に小石 の巖となりて苔のむす迄〱と皆同音に和歌あげ、主 に禮儀正しく座敷を立てば、今一つ御酒あげ度いとすがりつく。
といふことから曲がはじまる。これは上にもいふ通り、酒宴の終りにこの歌をうたひて祝したことを示すものである。 その外並木宗輔等作の苅萱桑門筑紫𨏍[2](享保二十年)にはその第四道行越後獅子の文の中に
逃けてのかはの觀世音步ながらに遙拜し、齡を祈る松島や千代に八干代にさゞれ岩出を跡になし云々
とある。之は既に述べた通り、この歌を行文の上に利用したものではあるが、上に「齡を祈る松島や」というたにつれて「千代に八干代にさゝれ」と云つたので、これもこの歌が長壽を祝する意があるから利用したものであらう。又近松半二等作の近江源氏先陣館(明和六年)にはその第二の文の中に
造酒頭
頭 を下げ憚り多き諫言を御聞入下されしな、御恩は重きさゞれ石、巖となりし御代萬歳 、見せ奉るがすぐさま追善、佛事終れば御前にもいざ御歸館と勸むれば……
とあるのも行文の上に利用したものである。同じく半二等作の妹脊山婦女庭訓(明和八年)には、その第二に
八重九重の內までも治まりなびく君が代の千代に八千代をさゝれ石の祝ひ壽き申にぞ甚叡慮おはしまし……
とある、これは假の皇居での千秋萬歳の祝の詞である。
又明和七年に出來た神靈矢口渡は福內鬼外(平賀源內)の作である。その第二に
運の月形鎌倉武士、三國一の高名も時に大島長門が妻お浪といへど、浪風も治まる武功、君か代は千代に八千代にさゝれ石、巖の上の釣竿は軍の先生名も高き太公望といふ人かと……
とあるも同樣で、これは「巖」といふことを引く序詞のやうに利用したものである。
又享和三年作の鎌倉三代記(紀海音作)には第四、若狹の局道行に
行合川の丸木橋踏はかへさじ一筋に、千代のためしのさゞれ石無き名の數やかぞふらん
とあり、天明七年作の碁太平記白石噺には第九「道行いはぬいろきぬ」の初に
爰の在所に、よい、この嫁御、よその男に氣をもみ洗ひ、かいけ柄杓の
緣 しは千年 かけ、水の流れと人の行末はいざ白石や、さざれ石、千代に八千代と結びあうたる妹と脊の契は堅き石堂の館を出て伊達助も……
とあり、寬政五年に舞臺にかけられた蝶花形名歌島臺(若竹笛躬、中村魚眼作)には十册の終に
若君を守護する御武運久吉公、見送る老の
一奏 、千代に八千代をさゞれ石いはほに殘る傾城塚とも末の世に呼ぶ追善や御祝言、蝶花形は春姫の輿入國入涙〔ママ〕の種、姥が窟をもみぢ葉を踏分けてこそ下山ある。
とある。これら皆行文の上に利用したものであるが、この歌が汎く人口に膾炙し人心に染み込んでゐたにより、利用の價値の多大であつたのによると思はるゝ
又德川時代の小說類、假名草子、浮世草子、
元祿元年に刊行した正月揃(六册)の卷一、京正月の條に
富の小川の水澄てさゞれ石の苔生までつきせぬ聖の御正月
とある、これも世を祝する爲に用ゐたのであらう。西鶴の作といふ本朝櫻陰比事(五册、元祿二年刊)の卷一の第一、「春の初の松葉山」のめでたい話の最後を
扨は記錄に付させられ、永代かはらぬ松葉山ちよに八千代と祝ひおさめける也
として文を終へてゐる。これは前代よりのしきたりで「君が代」と祝ひ納むる形をとつたものであらう。西澤一風の作といふ御前義經記(八册、元祿十三年刊)の一、「からしり馬に二人乘」の章のはじめに
大吉日をあらため、門出の御祝義に、四季の草花を臺につくらせ、娘がよそ〱しい顔〔ママ〕して、しやくをとれば、善三郎は拍子舞。
万 〱歳 と君が代をいはひをさむる盃の數かさなりてわくいづみ、つきせぬ中の友白髮、猶行末の目出度 は長生殿とかなでける。
とある。これも祝の言として用ゐたものである。同じく一風作の風流今平家(十二卷、六册、元錄十六年刊)といふものがある。それの十一、十二之卷の最後の文は
それより(高野山より)屋形に歸り、あまたの下部をかゝゑ心のまゝに商賣し、針口のをとたへず、目出度春をかさね〲の繁昌、くめどもつきぬ伊丹酒、千代萬代のてうしかはらけ、島臺かざるぜうとうば、よはひ久敷鶴と龜千代に八干代にさゞれ石の岩ほとなりてこけのむすまでめでたくかしく。
として文を閉ぢてある。これも前々より行はれて來た祝賀の言を以て納めとするならはしによつたものである。又元祿十五年刊の風流
惣じて女の所帶を持てば萬づに目をくばり、心をこまかにわりくだき、人をあはれむ事はいふに及ばず、むしけだ物の上までも露のなさけをかけそへて、面はしだり柳の風にうちなびき、心はゆたかにして、梅の梢に雪のつもるごとくほつこりとやはらかにふるまひ、身持やさしく、さゞれ石の岩ほとなりてこけのむすまで、さかへひさしき二葉の松の末々迄もめぐみにあはんと願ふこそいとしらしけれ。
とある、ここに「さゝれ石の岩ほとなりてこけのむすまで」とあるは、その盛り久しきことを冀ふ意にて用ゐたものであらう。
又寳永二年に刊行した
げに〱もらさでのめや、日の出まで月のかたぶくまでこそはうつろふいろもあるべきに、つきぬごげんとさすぞさせ、とくみかはしてたはぶるれば、ご一座ごゑつきまし〱て、をう〱めでたや、めでたしと、ごきげんよろしく見へければ、そのときによねたちや、おほくのたいこもろともに、きみが代はちよにやちよをさゞれいしのいはほとなりてこけのむすまでと、しうげんうたひたちければ、座中にありしよきやくたちみなばんぜいをとなへつゝ、せんしうらくはいろにめで、まんざいらくには身うけをせよ、大じんのぜんせいめでたかりとも、中々たとへんかたもなし。
とあるのは室町頃から酒宴の最後に「君が代」を歌うた慣はしがここらにも引きつゞいて行はれてゐたことを見る。又同じ人の作、熊谷女編笠(寳永三年六月京にての女の敵討を材料にしたもの、五册)の卷一、一、「靑丹よし奈良の都の四季」に
木辻鳴川の流は絶えずして京大坂の遊里に恥ぢず、二所に政所ありて
御裁判 濃厚 に御 惠深かりければ、民屋柱根をつぎて動かぬ國の目出度さ。千代にや千代に細石の巖となりて苔のむすまでと祈らぬ民もなかりき。
とあるは御代を祝するに用ゐたものである。又寳永六年刊の今樣二十四孝(六册)といふものがある。北京散人月尋堂といふ者の作といふ。その第六册の終に
今菜刀鍛冶の元祖
口人 とて世の人の口の端にのる正直者、大孝行の世の手本、並びうつせし板もと、干秋萬歳萬々歳、つきぬ君が代ぞめでたし。
とある。これは板元を祝した形で、頗る異例のものであるが、「千秋萬歳」の祝言と「君が代」の祝言と和漢を一つに合せてめでたし〱ととぢめたものである。又寳永七年刊行の「傾城難波みやげ」といふものがある。作者不詳の五册本である。その卷五の最後の文も
過しさ月闇晴れぬ雲間の空ながら思召しの儘に大夫樣を御手に入させ給ひ、高き粹大じんのほまれをあまねくかゝやかし給ふはさてもめでたき色里の賑い、猶かずつきぬ君が代や板元千秋萬歳萬々歳。
とある。上の今樣二十四孝と殆ど同じと云ふべき有樣である。明和三年に刊行した世間妾形氣(五册)がおる。和氏譯太郎(上田秋成)の作といふ。その卷一第二の文の中にも
今得さする子の齡をひめて家に久しき壽きをさざれ石の苔むすまでと心をこめてあたふるぞ。
とある。これら皆この歌を利用したものである。
曲亭馬琴の作、南總里見八犬傳は全九輯百六册、世界最大の傳奇小說と稱せらる文化十一年に第一輯を文化十三年に第二輯を出し、第九輯を文政十二年に出すまで前後二十八年にわたる。それの卷二の「第四回小湊に義實義を聚む笆の內に孝吉讐を逐ふ」に里見義實の 〔ママ〕東條城を責めとりし時の祝の歌として
賞重うして罰輕し、死せるものも更に
生
活ける物は榮えたり、江に還る車轍の魚
雪の中なる常盤木 君が齡はさゞれ石の
巖となるまで竭 せじな
といふものを揭げてゐる。これはさすがに馬琴だけあつて、古今集の本來の意のとほり、人の年壽を賀するのに用ゐてゐる。
以上は皆この歌を正面より用ゐたものであるが、また別にこの歌を狂文狂歌等にもぢりて用ゐたことが少からず見ゆる。今その二三の例をあげよう 醒睡笑といふ八卷の書がある。寬永年間の版になつたものである。著者は淨土宗の僧安樂庵策傳といふ。卷末に京都所司代板倉重宗の寬永五年三月十五日の跋がある。その文
元和元年之頃、安樂庵噺を所望いたし承侯へば、別而おもしろく存るに付て、御書集候而草子にいたし給候やうにと申候處、一兩年過八册に調給。紛失可仕哉と存、奧に書付置也。
とある。その卷八頓作の部に
靑苔 をいりまめにつけたる菓子、太閤の御前へ出したれば、幽齋公にむかはせ給ひ、なにと〱とありし時
君が代は千代に八干代にさゞれ石のいはほとなりてこけのむすまめ
とある。これは秀吉が幽齋にその靑海苔の衣をかけた煎豆を題にして一首よめと責めた時の頓作だといふのである。卽ち「こけのむすまで」をもぢり「まめ」とした所に機智がはたらいてゐるのである。
上の醒睡笑の狂歌は世に喧傳せられて、廣く人口に膾炙したものと見えて、橘窓自語を見ると、次の樣に傳へてゐる。曰はく
武者小路實蔭公をさなかりし比眞盛豆を賜ひし時、古歌を飜案して
君か代は千代に八干代にさゝれ石のいはほとなりて苔のむす豆
とよませ給ひたりしときけり、歌仙になるべき人はおさなかりしよりかくぞありける。
とある。眞盛豆といふのは京都北野の眞盛寺の尼が製し初めたといふもので
上の醒睡笑の話は太閤秀吉に關することだが、之に因みていふべきことがある。それは文會雜記(五册)に秀吉とこの歌とに關する話である。この書は湯淺元禎の著で、その師服部南郭をはじめ徂徠の門流又當時の名儒其他の言行を記したものである、その卷一下に
ソロリハ太閤豐王ノ寵セラレシ人ナリシガ、太閤ガ一石米ヲカイカネテケフモ五斗カイアスモ五斗カイト狂歌セシヲ太閤聞召シ、ソロリヲ召テ、此狂歌尤ナレドモ、ワレ天下ヲ掌ニ握リタルヲ太閤ガト云タルガニクキト云レタル時、君カ世八千世ニヤ千世ニサヾレ石ノ岩ホトナリテ苔ノムスマデト云タルハ天子ヲ君ガト申セシト云シカバ太閤詞ナカリケルト也。
とある。之によると、當時この「君が代」の歌をば主として天皇を祝する歌と信じてゐたことを思はしむる。然らばこの頃は天皇以外にこの歌を用ゐてはならぬとしたかといふに、必ずしもさうで無かつたことは上來述べた所でも知らるゝであらう。それで寬永二十年に書いたと、その文の中に見ゆる紀行文「あつまめくり」の末の方に
京都邊におはします上﨟一人有りけるが此上﨟は流石にて源氏を談じ眉作り、花鬘總角花結ひ何につけても暗からず、彼の御寺(法華寺トイヘリ)の檀那にて常に出入りし給へり。年も盛り□□八千代を重ねん細れ石巖と成りて諸共に苔のむすまで契らんと思ひし中もありつるが、定めなき世のならひとて夫は跡亡くなられけり。
といふのさへも見ゆるのである。さて又かやうな風に汎く一般に用ゐられて來たから戀の歌だなどといふ俗說も生じたのであらう。
立ちかへり、狂歌狂文に利用した例二三を見よう。上にあげた醒睡笑の作者策傳は又狂歌を能くした。その遺著、策傳和尙送答控を見ると
- 壬申元旦
- 策 傳
老松に若綠たつ春のいろ千代に八千代もふる天下
とある。之は「君が代」の歌を下に踏んでの詠に相違無い。狂歌の集、「吾吟我集」は石田未得の撰で慶安二年の刊行である。その序に
さゞれ石のいはほとなりて苔のむすめ子どもりうたつを吟じ、つくば山の七ツ石にかけてひやうしをとり
とある。これは「苔のむす」までをとつて「むすめ子ども」と掛詞にしたのだが、單にそれだけでなく、その娘子どもが「りうたつ節を吟じ」たといふ。そのりうたつ節の最初の歌は「君が代は」の歌だからその詞を先づあげて「さゞれ石のいはほとなりて苔のむすめ子ども」と冠したので頗る巧みなとり方である。又蜀山人の狂文を集錄した「四方の留粕」にある狂歌新玉集の序の中には
名つけて新玉狂歌集といふ、かくおとがひをときぬれば、飛鳥川のふちはせゝらわらふともさゝれ石のいはほとなりてこけたふるゝほどうま人のうまきわらひや
とある。之は古今集の假名序をもぢつたものだが、「君が代」の歌を利用したものであることはいふに及ばぬ。又狂文吾嬬那萬俚(二册、文化六年)は六樹園石川雅望の文を錄したものであるが、その上卷の「烏亭焉馬六十賀」には
武內三浦の大助を短命なりとそしり、それより仙術を以て千
年 の坂にいたり、龜山の山によぢのぼり、東方朔が桃を盜めるは我なりとありて億萬歳を掌ににぎらんことさゝれ石の巖とならんより易とよろこび
とあり、下卷の三陀羅法師會集には
今年の春、人々をつどへて初春祝といへるざれ歌をあつむと聞きて、野中の淸水さしぐみに例のあやしき言の葉をつゞけて、千代に八干代にさゝれ石のといと輕少なるいはひ言をのべつ。
とある、この下卷のは「さゝれ石のと」で、止めて、その「さゝれ石」の輕少なるいはひ言と洒落れたのである。又鯛屋貞柳はその狂歌集「家つと」その他に見ゆる狂歌に
- 二日灸
人の命千代に八千代と二月にも筆試る灸の天筆
御壽分は千代にやちよにさゝれ石の堅う見ゆるはうたかひもなし
- 娘の十三回忌
さゝれ石の千代に八干代とそたてしに卒都婆に苔の娘はかなや
とあるなどもこの類だが、ここには皆年壽に關してのみ用ゐてゐるのは貞柳の學殖の深きによるものと見らるゝ。
俳諧に於いてもこの歌を付合に往々用ゐたものである。西鶴の俳諧大句數第三の裏に
けつまつく二條通の細少石
しつかによめやれ君か代の歌
又物種集に
なけかねをしてわたる君か代 唐網のいはほと成てさゝれ石
- 堺成 安
といふのも見ゆる。大體かやうに利用するのは檀林に多く、蕉風以後には稀な樣である。下にあぐる麥林集の
君が代や猶も永字の筆はじめ
もこの類に入るべきであらう。
以上の外地方地方の俚謠にも利用せられてゐたことを見る。明和八年に諸國の民謠を蒐錄した山家鳥蟲歌を見ると、その上卷河內國風に
君は八干代にいはふね(岩船)神のあらぬかきりはくちもせん
備前國風に
千世にやちよにみよをさまりてなみもしつかに四つの海
とあるのは共に「君が代」の歌を基にしたものであらう。伊勢國菰野の碓挽歌に
碓 よ回れよ、どんどと落ちよ、君が代碓は何時 までも
とあるは「君が代は千代に八千代に云々」とあるに基づいて、その碓を祝ひて「君が代碓」と云つたものであらう。伊豫國宇和島藩の藩主が船に乘る時の御座船歌といふものは、その曲が六種あり、歌は長短種々あつて、凡そ九十首許ある。そのうち、その第六曲、葉歌といふものの一として
君か代は千代に八千代にさゝれ石の岩ほとなりて苔のむすまでも、嬉し日出たあのゝ、ゑいそりや、わかえだも、ゑいそりや、ゑい〱サン榮えるのんゑい、ヤウハハ葉もほん―
といふのがある。これは全くこの歌を俚謠にとりなしたものである。土佐では巷謠篇下に
吾川郡猪野村神祭歌
- 天神祭禮九月十八日神幸時道ニテ神輿ヲ舁者異口同音ニ謠
ちりへつぼふさゝれ石、いはほとなるまで祈るなり
とある。かやうに神の祭禮歌に唱ふるのは薩摩國熊毛郡(種子島)におる。それは
君が代は〱巖となりて二葉の松に折りそへて千代のはじめは〱さゞれいし、さゞれ石、いはほとなりて二葉の松に折りそへて千代のはじめは〱
とある。これは文詞が支離してはゐるが、君が代の歌を骨子として潤色したものであることは著しいのである。而してこれは今日も謠はれてゐるといふ。
祭禮に「君が代」の歌を唱へるのは當然の事といふべきだが、盆踊の歌にも亦往々用ゐられた。その古い例は延寶三年書寫踊歌にその「かつこ」の曲のきりに
月もさやけき秋のよになみかぜしづかに內おさまりて、よゝのさかへわさゝれいし、いわをとなりてこけのむすまで
とある。これは君か代の歌の第三句以下をとつてゐる。又、貞享元祿比、京都にて流行した盆踊歌を錄した「今道念都踊くとき」といふものに
○まん上神おろし
七不思儀とは龜の井の千代に八千代を苔のむすまで目出たさよ
とあるのである。之は明かに「君が代」の歌を基として作つたものである。又備前國岡山の盆唄は上の山家鳥蟲歌に見ゆる
干世にやちよにみよをさまりてなみもしつかに四つの海
とあつたといひ、薩摩の兵兒唄には
千代にな、八千代にふるとも動かしまい、君が治むる國ぢや程に
と謠つたといふ。而して之はその國での盆踊にも謠つたといふ。
この「君が代」の歌は古から正月の祝ひ歌として用ゐられた事と思はるゝ。「千代田大奧」には正月三ヶ日、德川將軍の御臺所の御手水の式を記してゐるが、その記事は
お裝束終りて後當番の中﨟御坐の間に注連飾りしたる白木造の盥と湯桶とを備へ御案內申上ぐ。軈てお着坐の後中﨟は湯桶を取上げる御臺所は手を出し湯を受くる眞似して
君が代は千代に八干代にさゝれ石のいはほとなりて苔のむすまで
と唱へ、扨て兩手を額際迄上げて御拜す。是れ御淸めの式也、
とある。これは將軍の御臺所の行事を記したのであるが、惟ふに、かやうの事は單に將軍家のみに止らず、公家や大名の家庭には似た樣な事があちこちに行はれたものと思ふ。芭蕉七部集の一なる春の日の「蛙のみ聞いてゆゝしき」の卷の名殘の裏にある附合の
我春の若水汲みに晝起きて
- 越 人
餠をくひつゝ祝ふ君が代
- 旦 藁
の旦藁の句もこの「君が代」の歌を祝ひとして唱へたことを云つたものであらう。多くの注釋家この「君が代」をばその賀歌を唱へたといふことを知りてか知らずてか、その委しい說明にしても「平生物固ければ、出入先の家より賴まれて年男をつとめ、曉方に歸つて一寢入し、晝頃起きて若水くみ神棚祭り(これまで前句の意による)それより女房の給仕に緩々と雜煮餠食ひながら先は結構の初春ぢや、これ皆泰平の御代の御恩といふものぢやと聞え覺えの文句並べて女房に聞かせる體である」(以上は小林一郎著七部集連句評釋の文)といふに止まる。その聞き覺えの文句とは何をさすのか一向明白に示してゐないのは不親切といふべきであらう。之は卽ち初春正月の祝賀の歌として「君が代は」の歌を口中に唱へて祝ひの箸をとつたことを歌つたものであることは疑ふべくも無い。又正月の吉書初め卽ち俗にいふ書き初めにもこの歌を用ゐたものである。玉田永敎の著した年中故事卷二、吉書始に
本朝家每に書初の歌
君か代は千代に八干代にさゝれいしのいはほとなりて苔のむす迄
長生殿裏春秋富、不老門前日月遲
と說いてある。これはずつと上に說いた和漢朗詠集の祝賀の詩歌(四首のうち)であり、ここにも朗詠集の血脈が流れてゐるのを見る。この書は寬政十二年のものであつて比較的に新しいものだが、古來の風習を說いたものである。されば、鹿兒島藩主島津重豪が吉書の
長生殿裏春秋富、不老門前日月遲
君か代は千代に八干代にさゝれ石のいはほとなりて苔のむす迄
- 寳曆十二年正月元日
- 重豪(花押)
とあるもの、又同じくして末に
- 明和二年正月元日
- 重豪(花押)
とあるものが、同家に保存してあるといふのである。又蕉門の俳士乙由の麥林集を見ると
君か代や猶も永字の筆はしめ
といふ句がある。筆はじめは古書初のことである。これも「君が代」の歌を書初めにしたこと、而して「千代に八千代に」の心を永字ノ法に因んで永の字に託して云つたものであらう。卽ち書初めにこの歌を用ゐることが古くから行はれてゐたことを知るのである。
薩摩では藩主が書初めにこの歌を書いただけで無く、上に述べた通り祭禮や盆踊に用ゐた外薩摩琵琶の歌にも用ゐれてゐる。
薩摩琵琶は薩摩地方に於いて發展した一種の俗樂である。之は平家琵琶の亞流かと思はるれど、琵琶は平家のよりも小さく撥は黃楊木で作り、甚だ大きく聲調も強烈である。古鹿兒島藩で慶長の頃から士風維持の爲に奬勵したもので、士人の盛んに演奏したものであつた。その薩摩琵琶で演奏する詞曲は大抵長い曲であつて、それには遠近、五倫花の香、小町、玉章、似我、墨繪、老曾の森、鴛鴦の夢など數多ある由である。そが中に蓬萊山といふ曲があるが、この曲の詞には「君が代」の歌が引用せられてある。
- 蓬萊山
目出たやな、君が惠は久方の光長閑けき春の日に、不老門を立出でて四方の景色を詠むれば、峯の小松に雛鶴すみて谷の小川に龜遊ぶ。君が代は千代に八千代にさゞれ石の巖となりて苔のむすまで命ながらへ雨
塊 を破らず、風枝を鳴らさじと言へば、又堯舜の御代もかくあらん。かほど治まる御代なれば千草萬木花咲き實 る。五穀成熟して、上には金殿樓閣の甍を並べ、下には民の竈厚くして仁義正しき御代の春蓬萊山とは是とかや。君が代の千歳の松は常磐色、變らぬ御代の例には天長地久と國も豐かに治まりて弓は袋に劍は箱に納め置く。諫鼓苔深うして鳥毛なか〱驚く樣ぞなかりける。
ここには「君が代」の歌は全章そのまゝとり入れてある。さうしてその前後にめでたい事をさま〲に叙して加へてあるが、その中心は「君が代」である事は疑ふべくも無い。
「君が代」の歌はその本質として祝賀の意を奏するものであるから俚謠でもその本質を失つてゐない。卽ち俚謠にも祝貿の意を表するに用ゐられたのでそれは田舍に多く殘つてゐたやうである。さてこゝに特に注目する一の事柄がある。それは伴信友の著した古詠考に傳ふる事柄である。曰はく、
若狹の風俗に春の始また節供などいふ日に盲女のものもらひにありくが門に立て
君か代は千世に八千世にさゝれ石の岩ほとなりて苔のむすまて
の歌をうたふが、大かた彼御詠歌のふしと異ならねど、をりからのほぎ歌なれば、うたふ聲もきくこころもあはれににぎはゝし。
とあり、その注に
老人の云、むかしは今よりもみやびてきこえたりといへり。おのれがいとわかゝりし頃聞たりしと今はまたいやしく童歌のかたにちかくなりたり。
とある。これは天保頃のことで、今から百年前の話である。「君が代」の歌が盲目女の物貰ひに唱ふる歌となりてあつたとは驚くべきことで、一面からいへば一種の冒瀆のやうだけれど、見地をかへて考へれば、如何にその歌が普遍化し又日常の生活に同化してゐたかを卜するに足る點もあつて、我々にこの歌が如何に民俗に同 化融合してゐたかを語るものといはねばならぬ。
以上種々の方面から古來の事實を觀察して來たのである。この歌は本來は年の賀の歌であつたが、その年の賀の場合はもとより、それから次第に意味を擴めて汎く祝賀の意の表示に轉用せられ、鎌倉時代からは神の祭にも佛會にも用ゐられた。最も佛會には興福寺の延年舞に用ゐられたのが、最初かどうか知らぬが、今日知られてゐるのでは最も古い。さうして延年舞とは退齡延年の意で、年壽を祝する精神のものだから、この歌の本意に合することは明かである。かやうにして次第に進んで宴席の祝言に用ゐられ、更に廣くなりて俗間の俚謠として碓唄にも船謠にも盆踊の歌にも兵兒謠にも、はては物貰の門附の謠としても用ゐられたものであり、更に又謠曲淨瑠璃、小說、狂歌、俳諧等の文藝の上にも利用せられたもので、その及び至る範圍は甚だ廣汎である。時代でいへば一千有餘年の昔から今日まで所でいへば京畿から四國九州更に南海の孤島まで、社會の階級からみれば帝王より乞食に至るまで、而して文藝上あらゆる方面に行き亙りて用ゐられ、祝賀の歌としては時と處と階級とを超越してゐるものであることを見るのである。
明治以後の事は目前の事だからこと新しく說くまでもあるまいと思ふけれど、いろ〱誤解訛傳もあるやうだから、少しく說くことにする。
明治の初期は歐米文明の輸入に日も足らぬと共に舊物破壞の思想が勢を逞くしてゐたから、この「君が代」の歌など顧みるものが無かつたので無いかといふに必ずしもさうでは無かつた。
吉備樂といふものは明治五年に岡山の池田藩の樂人岸本芳秀の創めたものである。その中に「君が代」の曲がある。その詞章は
君が代は、君が代は、千代に八千代に、さゞれ石の、巖となりて、苔のむす、限りなき世と、なるみ潟、誰も願ひは、みつしほの、外つ國までも治まれる、今の御代こそ樂しけれ、今の御代こそ樂しけれ、かゝる目出度き御代なれば笛竹鼓琴の音に調べ合せて舞ひ遊ぶ。
といふので、「君か代は」の歌を基として敷衍したものである。
明治十年に新作せられた忠臣藏年中行事といふ歌舞伎の脚本がある。之は三世河竹新七の作で明治初期の脚本として著しいものである。これは十年五月に東京春木座で上演せられたが、中々の好評であつて、すぐ翌月同座で之を增補して「忠臣藏後口實錄」と題して上演したのであつた。
之はその十二幕を一月から十二月までに配當して脚色したものであつて、その第六の幕六月は祇園町祭典の場である。この幕のはじめには淸元の淨瑠璃で所作をする場があり、その所作が濟んでから、いろ〱の立廻りになるのである。その淨瑠璃はすべてで九段あり、その一段ごとに所作がかはる。今、繁を厭ひ、第九段の外は全文を略してその首尾だけを示すと、
であり、その下には注して
トちらしの留り、家主出て拍子木を打つ。これにて又渡り拍子になり、この人數殘らず、底拔について上手へ入る
とある。卽ちこの時に「君が代」の歌が古來のしきたりの通りに利用せられてゐるのである。
明治十二年に文部省が設けた音樂取調掛から明治十四年十一月に小學唱歌集初篇を出版した。その內に「君が代」と題する篇がある。今その詞章だけを次に示す。
- 第二十三 君が代
- 一
- 君が代は ちよにやちよに
- さゞれいしの 巖となりて
- こけのむすまで うごきなく
- 常磐かきはに かぎりもあらじ
- 二
- きみがよは 千尋の底の
- さゞれいしの 鵜のゐる磯と
- あらはるゝまで かぎりなき
- みよの榮を ほぎたてまつる
といふのである。之は「君が代は」の歌を基として敷行したものである。卽ち之も亦古來の慣例のやうに「君が代は」の歌を利用應用したのであつて、その作者の心は德川時代以前の文藝作家の心そのまゝの繼承である。それ故にこの「君が代は」の歌に對するわが國民の態度は舊來のまゝであつたことを知るべきであるが、それと共に「君か代は」の歌の國民思想に溶けこんでゐる有樣を見るべきである。
「君が代」の歌は今國歌と信ぜられてゐる。然るに上にあげた小學唱歌集にはその「君が代」の歌をそのまま用ゐずして詞を補足し、更に新たな歌を作り加へてゐる。之は國歌を扱ふ態度といはれぬ。國歌として仰ぐ以上、それに餘計な詞を加へたりするのは冒瀆となるでは無いか。之を以て見ると文部省も音樂取調掛も明治十四年の頃には之を國歌とは思つてゐなかつたと考へらるゝのである
文部省ではその頃別に國歌をば新に撰定せうと企てたことがある。文部省で編纂した文部省沿革略といふものゝ明治十五年の條に
一月 音樂取調掛ニ於テ國歌撰定ニ着手ス
とあり、之に照應するものとして、明治十七年二月に音樂取調掛長伊澤修二が文部卿に提出した音樂取調成績申報書に
明治頌撰定ノ事
と題する一章があり、その冒頭に
明治頌ノ撰定ハ始メ國歌ノ資料ヲ撰定スルノ旨趣ニ出デタリ、其命ノ下リシハ實ニ明治十五年一月ナリ、抑國歌ノ事タル聖世ノ大典ニシテ其與カルトコロ至重至大ナレバ妄リニ斷了スベカラザルモノナルヲ以テ汎ク海外各國々歌及ビ其史傳等ニ據テ彼此參互深ク之ヲ硏究セシニ、彼國々歌中ニハ人心ノ向背ヲ決シ邦國ノ禍福ニ與リ億兆ノ幸否治道ノ進退ヲ來スニ至リシモノ尠シトセズ、是ヲ以テ先ヅ尊王愛國ノ大義ニ基キ汎ク古今ヲ斟酌シ明治聖世ノ隆德ヲ發揚スルヲ以テ主義ト爲シ得ルトコロノ歌按六篇ヲ以テ其三月中之ヲ文部卿ニ呈シ、其體裁內定ヲ請ヒシニ果シテ本掛ノ所見ニ違ハズ右ノ體裁ヲ以テ更ニ一層精選シ速カニ撰定ノ功ヲ竣ヘ稟申スベキノ旨ヲ得タリ、是ニ於テ乎國歌資料撰定ノ體裁相決シ更ニ規模ヲ張リ上ハ歷代ノ天業ヨリ下ハ勳王愛國ノ偉勳ニ至ルマデ普子ク古今ノ故事故實ヲ綜核シ國體ノ在ルトコロヲ硏究シ、且本邦和歌ノ作法雅俗樂ノ規則及ビ西樂ノ理法ヲ商量シ尊王愛國ノ大義ニ基キ拮据黽勉サラニ得ルトコロノ歌按四篇ヲ以テ次グ四月之ヲ上申シタリキ
と說いてゐる。かくてその按に就いて述べて後
本按ハ方今ナホ裁定中ニ屬スルヲ以テ目下其何如ヲ開報スル能ハザルハ遺憾ナリト云ベシ
と述べてゐる。その明治頌といふものゝ歌按六篇といふものも傳はつてゐるけれど、その四篇といふものは上述の如く公には知られぬ。かくてこの「明治頌撰定ノ事」の末に
若シ夫レ此明治頌巾明治聖世ノ大德ヲ發揚シ愛國ノ士氣ヲ奮興スルニ足ルアリテ他日我邦ノ國歌ト爲ルアラバ誠トニ鴻業ノ餘光ト云ベシ
と結んでゐる。しかしながらその明治頌といふものは世に公にせられずに終つたのである。かくの如く文部省は初め國歌を新たに作らうとしてしかも成功せず、隨つて明治十七年には文部省に於いて國歌なりとするものがあるとは認めてゐなかつたと見なければならぬ
然らば「君が代」の歌はどうして又何時國歌になつたのであらうか。經濟雜誌社から出版した日本社會事彙といふ書がある。明治二十三年九月に初版を出し、明治四十年十一月に訂正第三版を出した。その三版の本には
コクカ 國歌 西洋各國には各
國歌 あり。我國にては「君が代」の曲を國歌とす。古今集賀の部に題不知、讀人不知(我か君は千代に八千代云々とあり)「君が代は千代に八干代にさゞれ石のいはほとなりて苔のむすまで」なる古歌を取り明治十二年の頃當時宮內省の一等伶人たりし林廣守の作なり。また此曲の調和は同省雇敎師獨逸國人フランツ、エッケルトの手に成、〔ママ〕りしものにて其後國歌に選定せられたるものなり。(孝雄云、上文中に調和とあるは今いふ和聲なり)
とある。ここに今日いふ國歌としての「君が代」の曲の出生を見るのであるが、「其後國歌に選定せられた」といふのは漠然たることで、これだけでは直ちに首肯せられぬ。次に上の文にいふ所の重要な事項を顧みることにする
先づ林廣守がこの曲を作つたことを調査すると、之は宮內省がもとで無く海軍から起つたことだといふ。卽ち、明治十二年に海軍省で國歌の必要を認め、宮內省の雅樂課にその作曲を依賴したといふが、それは下にいふやうに明治十三年の事である。しかも、この際どうしてこの「君が代」の歌を海軍省が採つたかといふことも問題である。そこで、更にそれらの事情をも考へねばならぬ。
明治四十一年十月二日發行の新體國語敎本(藤岡作太郎編)卷七の「君が代と大和心」と題する章に
君が代の歌はもと古今和歌集に讀人知らずとして出でたり。明治の御代となりて後、わが國に來れりける西洋人某の、かの國々には國歌といふものありて國民の心を述べ、士氣を勵ますなるに、この國には未だ定まれるものなきこそ殘念なれと語れるに、ある士官のわが故鄕なる鹿兒島あたりの田舍には祭禮の折などに君が代の歌を謠ふなり。これを試みたらばいかならんといふ。それこそとて曲譜をつけて陸軍に用ひたるが、やがて全國に擴まりてなくてかなはぬ奉祝の歌となりぬ。耳慣れてはあれど、その一節を聞く每に君を思ふ心の誠は春の潮の如く胸に漲るぞかし。
とある。これで、「君が代」の歌が採用せられたはじめが大略わかつて來た樣だが、之は海軍から宮內省に作曲を依賴したのだと傳へられてゐるのに、上の文では陸軍に用ゐたとある。それらの事を明かにしておかねばならぬのみならず、その「ある士官」とは誰であるかをも明かにせねばならぬ。なほ上文に「耳慣れてはあれど云々」とあるのは異論を挾まねばならぬ。耳慣れて珍らしく無いといふは國歌にふさはしく無いとでもいふ事か。この歌は一千年前から我々の生れぬ前から、傳はつて世々謠ひ來つた歌で耳慣れてゐるといへば、これほど耳慣れてゐる歌は他にあるまい。ここには耳慣れては感慨の起り難いといふやうな口ぶりであるけれど、それは寧ろ逆であつてこれは耳慣れて一千年も傳へられて來たからこそ聽く者の感興がおのづから油然と湧き出でて止むることが出來ず、國民個々がおのづから一致した感想を生じ、誰も〱共鳴したからこそいつとなく國歌となつてしまつたのでは無からうか。
さて上の文にいふ「ある士官」とは誰であるか。別に傳ふる所では後に元帥になつた大山巖がその人であつたといふ。それらの事はなほ委しく知らねばならぬ
出雲寺
明治二年十月ごろ當時橫濱の英國公使館を警衞するイギリス步兵隊の軍樂長として在留してゐたジョン、ウィリアム、フェントンの下にあつて鎌田新平の引率する薩摩藩の鼓隊員卅名が軍樂を傳習してゐたが、その傳習生を通じ薩藩砲兵隊長大山巖(後の元帥)に對してフェントンから
儀禮 音樂としての國歌制定の建議があつた。そこで大山隊長もこの必要を痛感し直に御親衞大隊長野津鎭雄、少參事大迫喜右衞門 、藩兵大隊長河村純義等と相談し平素自分等が愛誦してゐる琵琶歌「蓬萊山」に引用せられてゐる「君が代」の歌詞を選び出し、樂長鎌田新平を經てその作曲をフェントンに賴んだのである。フェントンは通譯の原田宗助 がよく歌つてゐた「武士の歌」の旋律を參考にして上圖の曲譜に見るやうな五音音階の幾分日本風旋法を加味したものを作り上げた。(その曲譜はこゝに略する、又原田宗助は薩摩藩士、後海軍造兵總監に至る)
とある。これが「君が代」の歌の洋樂の曲譜にのつたはじめであり、又それが國歌となるべき途に上つた時であつたと思はるゝ。
ここに琵琶歌「蓬萊山」に引用せられゐる「君が代」をとつたとあるのは眞實であらう。又國語敎本に「わが故鄕なる鹿兒島あたりの田舍には祭禮の折などに君が代の歌を謠ふなり、これを試みたらばいかならん」と云つたのも彼の種子島の祭禮の歌を見れば眞實であらう。恐らくは甲が蓬萊山の歌から乙が祭禮の歌からそれ〲それを想ひ就いて相互に一致してそれを選定することになつたであらう。和田信二郎氏もその著「君が代と萬歳」に
薩藩の人々の耳には子供の頃から神舞や琵琶歌で「君が代」の歌が親しまれて居、其の薩藩の人々が明治の初年各方面の要路に居られたのでありますから國歌には何かよいかといふ問題が起りますれば、期せずして「君が代」の歌が薩人の口からも言ひ出されるのではなからうかとも思はれるのであります。
とある。
上述の場合にこの「君が代」の歌を選んで軍樂にしたのは誰であるかといふ事に就いては海軍大輔川村純義(後の伯爵)だとかその他いろ〱の說はあるが、多くは根據が無くて信ぜられぬ。やはり、その時の砲兵隊長大山巖であつたことは正確な事らしい。後年和田信二郎氏がその事實を確めておくべく大山元帥にそれに關しての質問書を差出した所、元帥副官林田芳太郎から大正元年十月九日附で
國歌ニ關シ大山元帥閣下ノ談話
と題した覺書を送附した由で、その全文は和田氏の前記の著に採錄してあるからそれを見ればわかるが、ここにその要點を抄出する。
外國ノ陸海軍ニハ各軍樂隊ト云フモノガ有ルニ我國ニ此頃マデ、マダ其レガ無カツタカラ、新タニ之ヲ置カネバナラヌト云フノデ、年齡十六七歳バカリノ靑年二三十名ヲ選ンデ橫濱ニ遣リ、同地在留ノ英國軍樂隊ニ就キ練習セシメタ。其時英國ノ樂長某(姓名ヲ記憶セズ)ガ歐米各國ニハ皆其國々ニ國歌ト云フモノガ有ツテ、總テノ儀式ノ時ニ其樂ヲ奏スルガ、貴國ニモ有ルカト、我ガ一靑年ニ問フタガ、靑年ガ之ニ答ヘテ無イト云フタレバ樂長ノ曰ク、其レハ貴國ニ取リテ甚ダ缺典デアル、足下宜シク先輩ニ就イテ、國歌トモナルベキ歌ヲ作製スルコトヲ依賴スベシ。然ラバ予ハ之ニ作譜シ、然ル後其歌ヨリ敎授ヲ始ムベシト。是ノ談示ヲ受ケタ靑年ハ薩藩ヨリ出タ江川與五郎ト云フ軍樂練習生デ在ツタガ、早速自分ノ許ニ來テ此話ヲ傳ヘタ。當時御親兵ノ大隊長ハ野津鎭雄デ、薩藩ヨリ東上シテ居タ少參事ニ大迫某ト云フ人ガ居タガ、此江川與五郎ノ來タ時、適々野津大迫兩人ガ來合ハシテ居テ共ニ其話ヲ聽キ、成ル程我國ニハマダ國歌ト云フモノガ無イ、遺憾ナ事ダガ、是レハ新タニ作ルヨリモ古歌カラ擇ラビ出ス可キデアルト云ツタ。其時自分が云フニハ英國ノ國歌 God save the king(神ヨ我君ヲ護レ)ト云フ歌ガアル、我國ノ國歌トシテハ宜シク寳祚ノ隆昌天壞無窮ナラムコトヲ祈リ奉レル歌ヲ撰ムベキデアルト云ヒテ平素愛誦スル「君が代」ノ歌ヲ提出シタ。之ヲ聞イタ野津モ大迫モ實ニ然リト早速同意シタカラ、之ヲ江川ニ授ケテ其師事スル所ノ英國樂長ニ示サシタ、自分ノ記憶スル所ノ事實ハ右ノ通リデアル、共後如何ナル手績ヲ經テ、國歌ヲ御制定ニ爲リシカ、其邊ノ事ハ承知シテ居ラヌ。云々。
とある。之に就いて我々は頗る重要な點があることを忘れてはならぬ。その一は英國の樂長が「國歌トモ爲ルベキ歌ヲ作製スルコトヲ依賴スベシ」と云つたことその二は大山巖が「君が代」の歌を示させたのは國歌ともなるべき歌として示したのであつたので之を國歌と定めたのでは無かつた。それ故に大山はその下に「共後如何ナル手績ヲ經テ國歌ヲ御制定ニ爲リシカ其邊ノ事ハ承知シテ居ラヌ」と云つてゐるのである。これは正しくいへば國歌の候補選定といふべきことで、之を以て直ちに國歌の制定とするのは早計である。
さてその後、その曲をどう取扱つたか。「古樂の眞髓」は上の文につゞいてその曲を批判してそれに次ぎ、次の樣に述べてゐる。
鎌田樂長はいづれ改作する必要はあるが取敢へず、この曲を採用し、翌明治三年九月八日、今の東京市深川區の南端にある埋立地、越中島における薩長土三藩兵御親閲の盛儀に際し、薩摩軍隊の演奏によつて、はじめて天聽に達するに至つたが、そのフェントン作曲のものは明治九年十一月三日の天長節を最後に廢止せられてしまつた。
とある。これはその曲譜の廢止せられたことを吿ぐるのである。しかしながら以上の事全體に亙り、大なる疑問がある。
疑問の第一は海軍の傳ふる所と矛盾するからである。明治二十年十二月に海軍省が編纂した海軍省記錄に
海軍々樂隊沿革資料
といふものがある。それには
明治二年九月鹿兒島藩兵ノ上京シテ神田一ツ橋內ニ屯在ス(三十二人ヲ以テ一隊トナス)橫濱屯在英國十番聯隊樂長フェントン氏ニ就キ軍樂ヲ爲サシムルコト凡一ヶ年間、其ノ間傳習ノ樂譜ハ僅ニ英國女皇ヲ祝スルノ曲、早行進、遲行進、及國歌君カ代等ナリ。明治三年四月十七日、駒場野ニ於テ諸藩兵ノ操練ヲ 天覧シ給フニ當リ國歌ノ譜ナキヲ以テ、フェントン氏ヲシテ君カ代ノ曲譜ヲ編製セシメ、以テ吹奏ス。(蓋シ、西洋樂器ヲ以テ國歌ヲ吹奏スルハ是ヲ始メト爲ス)
とある。(ここに前後の文に關係があるから參考の爲に、上の文の「三十二人云々」に就いて小田切信夫氏著「國歌君が代講話」を見ると、その實は三十名であつたと云ひ、その氏名とその所役をも明かにしてゐる。それは東京筑地橫須賀海兵團軍樂隊所藏の軍樂隊沿革史によるといふ。而して、その頃樂長役は差引人といひ、鎌田眞平が之に當り、幾許も無く辭して、西謙藏がその後をついだ。又後に海軍軍樂長となり、海軍軍樂隊の基礎を築いた中村祐庸もその一人で、當時長倉彦一といふ名で十八歳であつた。又後に陸軍軍樂隊長となり、陸軍軍樂の基礎を築いた四元義豐もその一人で當時平四郎といふ名で十八歳であつたといふ。)
さてここに引いた海軍々樂隊沿革資料の記事は上にいふ「古樂の眞髓」の說く所と同じく「君か代」の曲の事を述べたのであらう。當時は未だ陸軍海軍の區別が明かに立てられなかつたから、右樣の事は、あり得べきことである。しかしながらその二年の記事には「君が代」の曲は既に出來てゐた樣に見え、三年の記事にはこの年に作曲せしめたやうに云つてゐる。而して大山巖の話では二年十月ごろ、その曲が出來たやうに云つてゐる。彼是互に矛盾かある上に、大山巖の話では「國歌トモナルベキ歌」といひ、海軍では國歌とはつきり云つてゐる。それから又海軍省記錄には
海軍 天覧之記
といふものがあり、明治四年十一月二日に天皇が龍驤艦に召されて海軍諸艦を親閲せられた記事がある。其の記事に「天皇ヲ迎
陸軍の方の記錄によると、明治十八年十二月に喇叭譜の「君が代」が公布せられ(陸軍省記錄、達乙第百五十四號)明治二十年一月陸軍禮式によつて始めて其の吹奏の事が定められ同時にオーシャン吹奏の條規を有する觀兵式假規則が廢止せられ軍樂に於ける君が代は明治二十年に規定せられたといふことである。その觀兵式假規則は明治十五年一月四日に達乙第一號として公布せられたもので、その規定では天皇の奉迎、親閲、奉送の時にはいつも喇叭「オーシャン」を奏するのである。卽ち陸軍は明治二十年以前は「君が代」を吹奏せずして「オーシャン」を吹奏してゐたのである。
然らばその「オーシャン」とは如何なるものであるか。これは元來佛蘭西語(aux champs)で佛蘭西軍隊で用ゐた敬禮の喇叭譜をそのまゝ用ゐたものである。その源は明治三年十月二日の太政官布吿に海軍は英吉利式、陸軍は佛蘭西式を斟酌して編制することを吿げてゐる。それに基づいて軍樂隊も佛蘭西式に倣つたものであらうから、この「オーシャン」も陸軍が佛蘭西式によると定まつた明治三年から用ゐられたのでなからうか。鐵道省記錄によれば、明治五年九月十二日、鐵道開行式に行幸の時
新橋鐵道館ニ行幸 門內右側ニ近衞步兵一大隊ヲ橫隊ニ布列シ 通御ノ節捧銃式ヲ行ヒ喇叭「オーシャン」ノ曲ヲ奏シ云々
と見ゆる。明治六年七月十三日公布の陸軍諸禮式の第十二條、天皇行幸の際には
兵卒ハ劍ヲ裝シ銃ヲ捧ケ喇叭ハ「アウシアム」ヲ奏シ將校ハ劍ヲ以テ敬禮シ軍旗モ亦禮式ヲ行フ
と規定してある。明治八年一月七日達の「陸軍始式」には天皇に敬禮するに「但喇叭ハ「オーシャン」ヲ三回吹奏ス」とあり、明治十年十一月二日陸軍省達乙第百九十三號で明三日の天長節の諸兵隊分列式を天覧あるにつきての規定を達してゐるが、それにも「但喇叭は「オーシャン」ヲ三回吹奏ス」とあり、明治十二年一月十六日の太政官達第一號陸海軍會葬式のうち陸軍會葬式にも親王大臣大勳位等にある者には「オーシャン」を奏すべきを規定し、明治十三年檢閲式等皆「オーシャン」を吹奏する規定である。それ故に陸軍海軍と區別を立てられ、陸軍は佛蘭西式海軍は英國式と定められてから後には陸軍はすべて「オーシャン」を用ゐて「君が代」は用ゐなかつたことは明かである。
上のやうに考定して見ると、上に「古樂の眞髓」に
そのフェントン作曲のものは明治九年十一月三日の天長節を最後に廢止せられてしまつた。
とあるのは、陸軍が廢止したのか、海軍が廢止したのか、又その他で廢止したのか、それらの點が明かでないが、陸軍は明治三年以後佛蘭西式に則ることになり、それより後禮式の奏樂は專ら「オーシャン」を用ゐてゐたから、明治二十年以前「君が代」とは直接に關係をもつてゐなかつたと考へらるゝのである。
そこで考へらるゝことは海軍が「フェントン」を雇音樂敎師としてゐることとこの「君が代」の曲との關係である。フェントンの略歷に就いては和田信二郎氏の著書に說いてある。その大略
ジョン、ウィルヤムスフェントン氏は英國人であつて、橫濱屯在の英國十番聯隊の樂長でありましたが、明治四年十月から海軍省の御雇音樂敎師となりました。契約は一年間宛で期限每に繼續して雇はれて居りました。明治七年一月九日の海軍始に天皇陛下が兵學寮へ御臨幸になりました時に中下等士官として判任官席へ出頭の榮を得て居ります。海軍省では八年三月の滿期に解雇する筈でありましたが、七年十二月から稽古を始めた式部寮で俸給の半額を負擔するといふ事になつたので、引續き、雇繼になりました。八年四月からは式部寮雅樂課の音樂敎師に兼雇せられました。(中略)十年三月滿期解雇となり、直に英國へ歸國したといふ事であります。
この文によると、フェントンは明治四年十月から海軍省の御雇音樂敎師となつたことになるが、海軍省が出來たのは明治五年二月二十八日でこの日に兵部省が廢止せられ、その代りに陸軍省海軍省が設けられ、ここに海軍省が生じたのである。それ故に明治四年十月に雇はれたのはまだ兵部省の時代で、その頃築地に海軍操練所が(明治二年九月)設置せられ後海軍兵學寮(明治三年十一月改定)となつた。そこに敎師として聘せられたのであらうか。さうして、海軍が英國式とはつきりきまつたのは明治三年十月二日の太政官布吿である。之によつて考ふるに、それから後は陸軍は佛蘭西式によるから、英國の軍樂を傳ふるフェントンは專ら海軍に屬することになつたのでなからうか。而してそれがさうときまればフェントンの傳へた軍樂は海軍に屬することは自然のことであつたのではなからうか。かくして海軍がこの「君が代」の曲譜を引きつづき用ゐたのでなくてはならぬと考ふる。
かやうに考へてくると、「フェントン作曲のものは明治九年十一月三日の天長節を最後に廢止せられてしまつた」といふことは專ら海軍に於いての事と見なければならなくなる。
傳ふる所によれば「君が代」の曲を初めて作つた英國人フェントンといふ人は日本語を少しも知らなかつた人だといふ。それでフェントンに伴つてゐた通譯の薩摩藩士原田宗助がよく歌つてゐた「武士の歌」(蓋し、これは福岡藩士加藤司書の作「すめらみ國のものゝふは如何なることをかつとむべき、唯身にもてる眞心を君と親とにつくすまで」であらう)の旋律を參考にしたとは云つてもその譜は歌には少しも合つてゐなかつたといはれてゐる。それ故、明治九年に海軍軍樂長中村祐康が海軍省に對して
天皇陛下を奉祝する樂譜改定の議上申
を提出した。その上申書の寫が和田信二郎氏の著書に載せてある。その上申書は長文であるから要を摘んでいふと、先づ音樂の緊要の事であるを論じ次に歐米諸國に國歌の有ることを言ひ、さて現に用ゐる「君が代」の曲譜が我が國の詠謠する聲節と妥當せず、聽者に何の感も興させずして不可なることを力說し次に
抑此ノ
聖世 ノ譜ハ嘗テ鹿兒島藩ニ於テ樂隊創置ノ際敎師ヘントン氏ヲシテ欑造セシメシ所ニ係リ、當時同氏歸國ノ期至リ、殆ンド僅々餘日ナキニ鑑ミ、校正ヲ加フルノ暇ナク、爾後亦之ヲ改訂スルノ擧ナク默許襲用今日ニ至レルナリ。因テ希クハ今更ラニ改訂ヲ加ヘ宜シク音節ヲ正シ、以テ前述設樂ノ本意ニ適合セシメン事ヲ。別紙改訂見込書ヲ奉ル
と述べてゐる。その改訂見込書には四ケ條の意見があるが、その第一條は
現時我國人ノ詠謠スル聲響ハ每地方其音節ヲ異ニスルヲ以テ、何レヲ以テ正トスベキヤヲ斷定スル極メテ難シ。因テ宮中ニ於テ詠謳セラルヽ音節ニ協合セシムルヲ以テ改正ノ正鵠トナスベシ
といひ、第二條には改訂掛二名を宮內省へ出頭せしめ宮中の正音を傳習熟達せしむべしといひ、第三條にはその熟達の後にはフェントン氏に依囑して、その音節に協合すべき樂譜を造らしめようといふのである。この文をよむとその曲を創めて製作したヘントン氏と、この第三條にいふフェントン氏とは同人か異人か判斷に困む所がある。同じ人ならば、當時海軍の軍樂敎師として在任してゐた。それが爲に第三條の言があるのであらうが、不可解なのは「當時同氏歸國ノ期至リ云々」とある事である。この言はフェントン氏とヘントン氏とが別の人で無くては了解しかねる次第である。恐らくフェントン以前に別の人が在任してゐたのを後に忘れて同人の如く思うてゐるのか知れぬ。かくの如く不可解の點もあるが「君が代」が明治の初めに薩摩藩の兵隊に國歌となるべき見込で英國人によつて作曲せられて明治九年頃まで海軍に用ゐられて來たが、その曲が日本人の嗜好に適せぬもの、日本的の曲とは思はれず、改定を望むといふ風になつて來たことは明かに示された。
さて、その英國人によつて作られた「君が代」の曲譜はここに海軍軍樂長の上申によつて改定せらるることになつたらしい。その事は上にいふ明治九年の天長節に奏して後その曲譜は行はれなくなつたといふことと合致するやうである。しかしながら、その上申した事が直ちに採用せられ實施せられたといふことを見ないのである。
明治十年四月十九日附で文部省學務課から海軍省へ宛てゝ
當省派遣米國留學生監督ヨリ御省樂隊ニ於ケル「君カ代ハ」之歌ヲ以テ西洋樂譜編製相成居候樣傳聞候旨ヲ以テ請求方申越候間右等之書類有之候半者御回付有之度此段及御依賴候也
といふ照會を出してゐる。海軍省は之に對して四月廿六日に了承した旨を文部省學務課に答へてその「軍樂隊ニ於テ編製之西洋樂譜壹通」を謄寫して送つてゐる。その譜といふものは如何なるものであつたか今は傳はつてゐないので知る由も無いが、その頃中村の上申によつて改定せられたといふことも聞かぬから、或はフェントンの作曲のまゝであつたかも知れぬ。
又同じ明治十年八月九日附で外務大輔鮫島尙信から海軍大輔代理少將中牟田倉之助宛に
各在外公使ヘ差贈度候間御省樂隊ニ用ル
日本國歌 ノ譜各六揃御送付相成度候也
といふ照會をなしたに答へて海軍大輔代理から外務大輔に宛てて「樂隊ニ用ル日本國歌之樂譜各種六揃ツヽ」送る旨の回答をしてゐる。ここにいふ日本國歌とは何をさしたのか「各種六揃ツヽ」とあるは公使館六箇所に頒つのであらうが、各種とあるから一の曲では無く、幾つかの曲であつたらうか。これも今日となつては知る由も無い。隨つて「君が代は」がその中に在つたか否かも明白では無いが、米國留學生監督の請求を參照して見ると、「君が代」もその一であつたらうと推定してもよからうと思はるゝ。それにしてもここにいふ國歌とは一二の曲に止まらなかつたやうだ。それ故にここにいふ所の國歌は今日いふ所の國歌とは少しく意味が違ふやうである。
又和田氏の著書によると、
明治十年十一月西南役に際し戰地へ出張する文官に御陪食を仰付けられましたが、其の時に「君が代」を奏せられました。これが宮內省伶人によつて「君が代」が奏せられた最初であるといふ事であります。さうして宮中御宴會にて初めて奏せられましたのは十一年十一月三日の天長節御宴會が最初であるといふ事であります。同年十二月十日雅樂稽古所日課開業式に「君が代」が奏せられ、それ以來稽古所の春秋二季の演奏會に於ては歐洲樂の初めに必ず「君か代」を奏する例になりました
とある。この記事によると「君が代」の歌はこれより以前には宮中では歌はれたことが無かつたといふことになる。さうすると、延喜の昔の事はわからぬが、その以後宮中の關係者の間で和歌披講の稽古には和歌の標本として用ゐられたけれど、實際の祝賀としては用ゐられず、一千有餘年の後はじめて宮中で歌はれることになつたものであると思はるゝ。さうしてその一千有餘年の間生命を有して活潑にはたらいて來たのは專ら民間に行はれたからである。さうしてそれは常識化して、その歌の起源などは問題にもならなかつたのである。之を明治になつて強ひて國歌として復活せしめたなどと信じてゐる人があるさうであり、なほ甚しきは明治の太政大臣三條實美が作つたものだと聞いてゐたといふ人もあるのである。いづれも無稽の甚しいものである。
さて上に述べた通り、文部省が海軍省に「君が代」の樂譜を請求したのが明治十年四月であり、外務省が同じく海軍省に國歌の樂譜を請求したのが同年八月であり、宮內省で初めて君が代を奏したのも同年十一月であつた所を以て見ると明治十年といふ年は「君が代」の歌にとつては特に注目すべき年であつたやうに思はるゝ。さうしてその前年、九年に海軍軍樂長が「君が代」の作曲を改定して純日本式にすべきだといふ意見を上申してゐる。その上申の結果は或は「君が代」の曲を上下一般に重んずる氣運に向つて來るやうにしむけたのかも知られぬが、或は又上下一般にさういふ氣運に向つて來た爲に海軍軍樂長の上申も有つたのかも知られぬ。
海軍軍樂長の上申の趣旨により「君が代」の曲の改定の事が實現の緖に就いたのは明治十三年であつたやうである。海軍省の記錄によると、明治十三年一月三十日に軍務局長海軍大佐林淸康から宮內省式部頭坊城俊政に宛てゝ
當局所轄軍樂科ニ於テ從來君ケ代之和歌ヲ樂譜ニ作リ奏樂致居候得共右樂譜誦歌之道ニ叶候哉其邊不相分又此後追々和歌ヲ以テ樂譜ニ調製致度、就而者御寮伶官之內誦歌之道ニ達居候者樂譜調制之爲メ芝波崎町海軍元兵營內軍樂科演習所ヘ出頭口授相成候樣致度此旨及御依賴候也
といふ照會を發した所、式部助丸岡莞爾より承諾した旨を二月二日に軍務局長に答へてゐる。これから後海軍軍樂科に於いて宮內省の雅樂稽古所の伶人に就いて學ぶと共に、「君が代」の曲譜を撰ぶことをも宮內省に依賴したのであつた。それが、六月に至つて決定したことは明治十三年六月廿九日に式部寮雅樂課から
兼テ御依賴有之候君カ代、ウミユカハ之歌撰譜相成候ニ付テハ唱歌其筋ニテ聽聞之上決定いたし候問當稽古所へ出張候樣其節へ御達し相成度此段及御照會候也
と海軍省へ照會してゐる。而して宮內省雅樂課記錄には明治十三年七月一日の
海軍省ヨリ依賴之唱歌撰譜相成候ニ付供震覧候也
の記事がある。之によりてその曲譜の改定が成功したことを知る。次に海軍省記錄には
陛下奉祀之樂譜改正相成度候ニ付上申
と標して明治十三年十月廿六日付で
陛下奉祝ノ爲メ、從來吹奏致候君カ代之樂譜ハ以前鹿兒島藩ニ於テ英人某ニ編製セシメタルモノノ由、然ルニ彼ノ英人我言語不了解ノ故ニヤ音調ノ緩急上ケ下ケ等未タ完全ナラサルヨリ聽クモノ搔痒ノ感ナキヲ得ス仍テ先般式部寮伶人ヲシテ綿密ニ修正セシメ過日敎師エツケルトヲ始メ伶人立會之上唱歌調査仕候處緩急其度ヲ得、上下其節ニ適ヒ全ク善良無瑕ノモノト存候間本年天長節ヨリ別紙之通リ改正仕度候條御認可相成度候就テハ陸軍軍樂隊ヘモ關係致候儀ニ付右改正之儀同省ヘ御照會相成度此段上請候也
といふ上申を軍務局長海軍少將林淸康から海軍卿榎本武揚へ提出してゐる。卽ちこの時から、今ある「君か代」の曲譜が用ゐられたのであらう。この上申書には陸軍軍樂隊も關係してゐるといひ、上申書の追申にも
追テ過日唱歌調査之際圖ラス陸軍々樂長ニモ陪席致シ全ク善良無瑕之旨申出居候間此段添申仕候也
とある。しかし、ここに疑問がある 小田切信夫氏の著によると、その軍樂曲改訂の委員として
の四人が命ぜられたとある。陸軍々樂長が正式の委員であつたら、上の追伸の意味は分らなくなる。これは恐らくは小田切氏の云ふ所は誤りで、陸軍々樂長は正式の委員で無く、唯、意見を徵せられた程度であつたのであらう。
さて、以上の如く海軍から陸軍にこの「君が代」の軍樂の譜制定のことを通知したけれども、陸軍は積極的にこの事に關知する態度をとらなかつた、卽ち、その通知を受けても之を用ゐるといふ回答を海軍に與へなかつたやうである、ただ海軍省のこの照會の趣を當時陸軍の軍樂除を養成してゐた敎導團に傳へたものと見え、敎導團に於いて「改正之上吹奏すべき旨」を陸軍官房副長に回答してゐることを見る。かやうにして、陸軍はその後もこの「君が代」を公式に奏したのでは無かつたその事は明治十三年十月八日達の明治十三年檢閲式に「捧銃ヲナシ「オーシャン」ヲ奏ス」べきことをくりかへしてゐるので明かである。
さてこの時から宮內省でも舊譜を廢してその年の天長節から新譜を用ゐて「君が代」の曲を奏したのである。宮內省雅樂課記錄に
明治十三年十月廿六日
是迄歐州樂ニ相用候君ケ代ノ曲ハ其歌ヲ樂器ニ施シ候ノミニテ正調ヲ得サルモノニ付先般來海軍省樂隊演習所ニ於テ伶官ノ撰譜ニ基キ施ニ歐州樂器ヲ用、伶官出會曲調審査ノ未成樂候ニ付來月三日天長節ヨリ新譜相用是迄分相廢申度依而本省開申案相調譜面相添此段開陳候也
とあつて
是迄歐州奏樂ニ相用候君カ代ノ曲ハ該歌ヲ樂器ニ施候ノミニテ正調ヲ得サルモノニ付別紙撰譜ニ基キ、今般海軍省樂隊演習所協議ノ末、曲譜審査成樂侯ニ付來月三日天長節宴會奏樂之節ヨリ新譜相用候ニ付此段開申候也
十三年十月三十日
とある。卽ちこの年十一月三日の天長節より海軍と宮中とに於いてこの新譜が實施せられたのである。
ここに頗る重大なことがある。それは薩摩藩の軍隊からはじまり海軍に傳はつた「君が代」の曲は喇叭の譜、若くは廣くしても器樂に止まつてゐたのであるが、今度の新曲譜は先づ唱歌の譜を撰し、後和聲を施して器樂ともしたものであつたといふことである。茲に到つて「君が代」は國民の唱歌としての一定の譜を得たことで、「君が代」の歷史の上から見ると、この明治十三年十一月三日は劃期的の重大な日である。我々はここにその譜の成立の事情を今少しく知つておくべきである。和田信二郎氏の言ふ所は
海軍軍樂の當事者は之を改訂したいといふ考を持ちました。改訂するに就きましては一體和歌といふものはどういふ風に歌ふものであるか、和歌の歌ひ方を先づ以て知つておかねばならぬといふ處から、宮內省式部寮雅樂課の伶人に和歌の歌ひ方を習ひたいといふ事を明治十三年一月三十一日付で宮內省へ照會になりました。宮內省では二月二日付で依賴の趣承知したといふ回答を發し、海軍の希望によりまして每週水曜日木曜日の兩日に伶人を軍樂演習所へ遣はされました。海軍軍樂隊では口授を受けて多少和歌の歌ひ方を會得するに至りました。そして其の年六月國歌として「君が代」の歌に作曲して貰ひたいといふ事を雅樂課へ依賴致しました。雅樂課では課員三四人が各自に作曲して之を海軍に送りました。海軍では御雇敎師獨逸人フランツ、エツケルト氏を中心として一々之を調査し二等伶人林
廣守 氏の名によつて作曲提出せられた壹越調律旋のものを執る事になりました。そしてエツケルト氏によつて和聲も出來ましたので雅樂寮から林廣守、一等伶人芝葛鎭 二等伶人東儀季凞 、御用掛小篠秀一(注略す)の諸氏が立合ひ試演を致しました處旋法は原譜のまゝで至極よろしくありましたが、律法が少し高くなつて居るので原譜のやうに壹越調律旋に引直すやうに伶人側から意見の開陳があり、訂正試演をなし、折柄來合はせて居た陸軍軍樂長(四元義豐氏)も立會ひ、いよいよ整備して茲に完成致しました。それが十月二十五日でありました。
とある。卽ち林廣守が唱譜をつくり、エツケルトが和聲をつくつたのであつた。
林廣守は大坂天王寺方の樂人岡壹岐守昌但の三男で天保二年十一月大阪で生れた。幼くして林
この「君が代」の譜は名義は林廣守となつてゐるが、その實は「廣守の長男林廣季氏と奧
牛込御門內雅樂稽古所の玄關側に當直してゐた晩の事であつた廣季氏と自分と兩人で相談して作り廣守氏の名儀にしておいたもので、實際の事をいふと其の時には「君が代」の歌に譜を付けるといふだけの事でそれが國歌であるといふ事は知らずに作つたのであつた。
といふのである。なほ和田氏が錄してゐる宮內省式部職雅樂長芝忠重氏談話によると「樂部にては御大禮、御大葬などの場合に數名の者が各作曲し審査の上其の一が採用せられるが、それは其の人の作とせず、必ず樂長が代表者となり、個人の作曲とはしない慣例になつてゐる」さうである。
フランツ、エツケルトは蓋し、フェントン歸國後その後任として聘せられたのであらう。この人は獨逸人で明治十二年三月海軍省御雇敎師、明治二十二年三月滿期解雇になつたが、十六年二月から文部省音樂取調掛敎師兼務となり、十九年三月まで勤務、二十年四月から宮內省雅樂課兼雇となり、後宮內省專任となり、明治三十二年に歸國するまで勤務してゐた。
このやうにして「君が代」に唱歌としての曲調と管樂器を奏する時の和聲とが完成したのであるが、之を今日いふ國歌と云つたのかどうかは疑問がある。それは何故かといふに、明治十年八月に外務大輔の海軍省に照會した文書に「日本
しかし、海軍省に藏せらるゝものには明かに
國歌「君ヶ代」樂譜
と表紙に記し、その和聲の譜の右側に
L. 25. 10. 80. F. Eckert,
〔ママ〕記してあることはその寫眞で明白である。八〇は一八八〇年(明治十三年)であるからその年十月二十五日にその譜を決定したことを記したもので、芝葛鎭日記明治十三年の條に
十月廿五日月、丁亥、晴當夏海軍省ヨリ依賴ニ相成候日本御國歌君カ代墨譜撰譜相回シ置候處、同省軍樂部ニ於て歐樂器ニ調整相成候ニ付爲調査出張之儀依賴致來候ニ付本日午前九時同省軍樂稽古場ヘ出頭ス、廣守、季熈、秀一、予等也、合奏聽聞之處旋法ハ原譜ノ如至極能出來候得共律ハ少々高ク相成居候ニ付如原譜壹越調律旋ニ引直シ之儀申入直ニ相改整頓致候也、十二時稽古所ニ歸ル
とあるに一致する。卽ちその日エツケルトが之を淸書して署名しておいたものであらう。
明治の御代になつて「君が代」は國歌と認めらるゝことになつたことは上に述べた所で大略はわかるが、しかしながら、國歌といふ考へを中心にしてそれが國歌になつたものとして考へて見ると、上にいふ所だけでは多少不十分の樣に思ふから、ここには國歌といふ考へを主として「君が代」の歌との關係を顧みる。
國歌といふことに就いて、日本國民が初めて問題としたのは上にいふ通り、明治二年に上京して神田一ツ橋內に屯在してゐた鹿兒島藩兵が橫濱に屯在中の英國樂長フェントンに就き軍樂を習つた時にはじまる。和田信二郎氏の書に
明治三四年頃―大山巖氏が砲兵の隊長をして居られた頃―薩摩藩から軍樂練習生を二三十名ばかり募集し、それを橫濱へ遣り、同地在留の英國軍樂隊に就いて練習させました。其の時英國の樂長はジョン、ウィルヤムスフェントンといふ人でありまして外國には國歌といふものがあるが日本にはないかと申しましたので、練習生はないと答へました。すると、それでは先輩に賴んで作つて貰へ、さうすればそれに譜をつけて、其歌から敎へてやらうと申しました。
とある。これは軍樂には先づ國歌から習ふべきものだからであらう。國歌がある以上、國民は何を措いても先づ國歌を知らねばならぬと同じことである。
さて、この時が日本人に國歌といふものを考へさせたはじめであらう。さて和田氏の文は上文につゞいて
そこで其の練習生の一人が大山氏の處へ來てフェントン氏の意見を傳へました。其の時偶〻大隊長野津鎭雄氏、上京中の鹿兒島少參事大迫喜右衞門氏も來合はせて居られ、成る程國歌のないといふのは遺憾な事であるが、これは新に作るより古歌から選ぶ方がよいであらうと三氏の意見が一致し、大山氏はそれには「君が代」の歌が最も適して居るであらうと發議せられ、兩氏も賛成せられたので其の旨をフェントン氏に傳へさせたといふ事であります。
とある。これが國歌といふ考へ、又、國歌には「君が代」を用ゐたがよいといふ考への起つたはじめである。この「君が代」を國歌としたらよいと考へたのが大山巖氏だと考へられてゐるが、又別に明治五年に明治天皇が軍艦に召されて九州に行幸の時佛國軍艦が之を奏したので、その時海軍大輔であつた川村純義の考であるといふ說(明治四十三年、京都圖書館長湯吉郎の說)があるけれど、明治五年には川村純義は海軍少輔であつて、大輔になつたのは明治七年であり、又その時宮內省雅樂所で作譜したものを佛國艦隊に送つたといふが、宮內省で作譜したのは明治十三年であることは上に述べた通りである。それ故この說は信ぜられぬ。
それで、その歌を撰出したのは大山巖氏であつたことは動かない事と思ふが、フェントンから國歌の事を聞いて、大山にその事を傳へたのが「江川與五郎といふ軍樂練習生で在つだ」さうして「之を江川に授けて其師事する所の英國樂長に示さした」と大山氏談話にある。然るに、その談話に對しての猪谷宗五郎氏の談話には「江川與五郎とあるが恐らく與五郎の兄吉次郎であつたであらうと思ふ、江川は頴川と書く頴川與五郎といへば薩藩では非常に有名で云々」と云ひ、縷々說いてゐるが、その頴川吉次郎が確かだといふ證據も示されてゐないから、第三者たる我々から見ると、どちらが正しいか判斷に苦しむ。なほその上「古樂の眞髓」の說によるとその薩摩藩の軍樂生は「鎌田新平の引率する」所で、大山隊長が「樂長鎌田新平を經てその作曲をフェントンに賴んだ」とある。かくの如く傳ふる所が區々であり、我々はその巨細を知るに苦しむが、明治二三年頃、英國の軍樂長フェントンの勸吿により大山巖が當事者となり「君が代」の歌を撰んで作曲を依賴したといふ骨子は動かぬ樣に思ふ。
次に、この時「君が代」の歌を撰んだのは直ちに國歌として指定したのかどうかを顧みると、大山巖氏の談話の中にエッケルトの言として
樂長ノ曰ク其レハ貴國ニ取リテ甚ダ缺典デアル。足下宜シク先輩ニ就イテ國歌トモ爲ルベキ歌ヲ作製スルコトヲ依賴スベシ、然ラバ予ハ之ニ作譜シ然ル後其歌ヨリ敎授スベシ。
としてあり、さてその歌を江川に授けたことを述べて
其時自分ガ云フニハ英國ノ國歌 God save the king(神ヨ我君ヲ護レ)ト云フ歌ガアル我國ノ國歌トシテ宜シク寳祚ノ隆昌天壤無窮ナランコトヲ祈リ奉レル歌ヲ撰ムベキデアルト云ヒテ平素愛誦スル「君ガ代」ノ歌ヲ撰出シタ之ヲ聞イタ野津モ大迫モ實ニ然リト早速同意シタカラ之ヲ江川ニ授ケテ其師事スル所ノ英國樂長ニ示サシタ。自分ノ記憶スル所ノ事實ハ右ノ通リデアル。共後如何ナル手績ヲ經テ國歌ヲ御制定ニ爲リシカ其邊ノ事ハ承知シテ居ラヌ
とある。これは大正元年十月九日に大山元帥副官林田芳太郎より和田信二郎にあてた覺書の中の文である。之によつて見ると、フェントンは「將來國歌トモ爲ルベキ歌」として「君が代」の歌を受け取つたものであり、大山もその積りで渡したもので國歌として勝手に定めたものではなかつた。それ故に大山は「共後如何なる手續を經て國歌を御制定に爲りしか其邊の事は承知して居らぬ」のである。
されば、我々が國歌制定の事をばこの大山の話に基づいて、別に探求せねばならぬのである。それにしても實際上この「君が代」が國歌になつたのであるから、先づこの「君が代」の事から端緖を見出さねばならぬ。
フェントンの「君が代」の歌に加へた曲は海軍に傳はつたことは既に述べた。それ故に「君が代」の歌が國歌となるに至るにはその海軍に傳はつた曲が因をなすべき筋合のものである。上にもいふ如く、海軍省に藏するエッケルトが八〇年(明治十三年)十月廿五日に自記した譜の表紙には
國歌「君ケ代」樂譜
と墨書してゐる。之は明治十三年十月二十六日付海軍省文書附屬の別紙となつてゐる。而して明治二十年十二月編纂の海軍々樂隊沿革資料には
明治二年九月(云々)凡一ケ年間傳習ノ樂譜ハ僅ニ英國女皇ヲ祝スルノ曲、早行進、遲行進及國歌君カ代等ナリ
とあるが、この時に君カ代は國歌の候補ではあつたが、國歌と制定せられたもので無かつたことは當事者たる大山巖の言で明白である。次に同資料に
明治三年四月十七日駒場野ニ於テ諸藩兵ノ操練ヲ 天覧シ給フニ當リ、奉祝スヘキ國歌ノ譜ナキヲ以テフェントン氏ヲシテ君カ代ノ曲譜ヲ編製セシメ以テ吹奏ス
とあるも疑惑を催す言である。この文面ではこの際フェントンに作曲せしめたやうに解せねばならぬが、然るときには明治二年の條に既に「君が代」の曲の事があるのと矛盾する。之は蓋し、フェントンの作曲の君が代を公式に奏したといふことであつて、明治三年に國歌と定められたものとは思はれないことは既に說いた通りである。
しかしながら、そのフェントンの作つた君が代の曲が薩摩の軍樂隊から海軍に傳へられたらうといふことは上に推想した所である。その海軍が明治十三年十月廿五日確定の譜に「國歌君ケ代樂譜」と記してゐるから、この時には國歌とはつきり認めたことは明かであるといはねばならぬ。しかしながら、「君が代」を國歌とすると國家が公布したことも無く、又それらの記錄も無い。「君が代」の歌を國歌にしたらよからうと選定した當事者たる大山巖氏もその制定の事を知らないのである。ここに大なる疑問がある。
海軍省記錄に明治四年十一月二日の海軍天覧之記と題する記事がある。その艦隊の禮式として
老功大尉禮式ト令スルトキ帽ヲ脫シ祝聲奉拜三回ヲ奉シ天皇ヲ迎
ヒ奉 ノ音樂ヲ奏ス
とあり、又天皇御乘艦甲板に昇らせ給ふ時に
樂手天皇ヲ迎ルノ樂ヲ奏ス
とあるが、國歌とも「君が代」とも無いから、何とも分らぬ。 さて又、フェントンが「君が代」につけた曲の譜といふものが上眞行氏の藏にあつたといふことで、それが發見せられた、其のフェントン眞筆の譜面を見ると、その歌は「君が代は」の歌で無くして萬葉集の
御民われ生けるしるしあり天地の榮ゆる時にあへらく思へば
といふ歌が記してあつたといふ。而してその「御民われ」の譜の上部にJapanese National Hymnと自筆で記してある。然るときはこの歌も亦日本國歌であつたといはねばならぬ。而してかういふ事實を見ると、大山氏が示した「君か代は」の歌といふのが眞實であつたか、否か、又「君が代は」の外に「御民われ」をも國歌としたかどうかといふ疑が生じてくる。しかも、フェントン作といはるる「君が代」の譜と上氏の發見したフェントン眞筆の「御民われ」の譜とは移調せられてはあるが同一の譜なのである。これは如何なることか。大なる疑問であると共に、二者共に國歌としたものとすると國歌といふ觀念は今日の我々の考ふる所とは大分に差違があることになる。
さて、明治十年四月に文部省から海軍省にその省の樂隊の用ゐてゐる「君が代は之歌ヲ以テ西洋樂譜編成」のものを請求したから海軍省から之を送つたことは既に述べた。なほその年八月二日に外務省から海軍省へ
を送つてくれと請求し、外務省が之に應じたといふ往復の記錄が外務省にあつた。之によると「日本國歌の譜」といふものが「各種」と云つてかぞふるだけの數があつたことになる。さうすると日本國歌といふものは海軍省も外務省も公に認めてゐたものであり、而してそれは「君が代」の曲だけに止まらなかつたと推測せられねばならぬ。
それから、明治十一年十二月に、宮內省式部頭坊城俊政から國歌を制すべきことを建議してゐる。それに基づいて宮內省文學御用掛近藤芳樹の手許で取調中だといふ十二月廿二日の宮內書記官から式部權助への返翰が雅樂課記錄に在る由であるが、その後は何等の事も無かつたやうである。この時には
一時に數十首御下附相成候節者墨譜相撰候上におゐて自ら混亂ヲ可生モ難計
とあるのを見ると、その國歌とすべきものは一首や二首に止まつたものとは思はれないやうである。しかし、これも成功したものでは無い。
さて明治十三年一月卅一日に海軍省軍務局長から宮內省式部頭への依賴狀には
當局所轄軍樂科ニ於テ從來君ケ代之和歌ヲ樂譜ニ作り〔ママ〕奏樂致居候得共云々
とあつて國歌とは云つてゐないし、二月三日の式部助から海軍軍務局長への承諾の回答も同樣になつてゐる。さて又、同年六月廿九日に式部雅樂課から海軍省へ差出した文書が雅樂課記錄にあり、その中に
兼テ御依賴有之候君が代ウミユカバ之歌撰譜相成候ニ付テハ云々
とあるのを見れば、海軍省から撰譜の依賴をしたのは「君が代」だけで無く「海行かは」の歌についてもであつたことと思はるゝ。しかし、芝葛鎭の日記、明治十三年十月廿五日の記事には
當夏海軍省ヨリ依賴ニ相成侯日本御國歌君が代墨譜撰譜相回シ置候處云々
とあるから、宮內省でも「君が代」を國歌と思うてゐたものと察せらるゝ。けれども、海軍省宮內省の當時の往復公文書の上には「君ケ代ノ曲」といふだけで國歌といふ語は見えぬ。明治二十一年にエツケルトの「大日本禮式」―(君が代の譜)が刊行せられた。その表題にJapanishe Hymneとある。之は海軍省から各條約國へ公文書で通知した時に副へたものらしい。卽ち「君が代」を日本國歌として外國に公示したのであるが、その譜は君が代の曲の和聲の表である。
海軍は明治の初めに「君が代」を將來國歌となるべきものとして、フェントンの作曲を用ゐたが、明治十三年新にその歌曲を宮內省に依賴して作り、エッケルトに命じて之が和聲を作らしめその全體を國歌と稱して、公式の軍樂として用ゐた。宮內省は公に國歌とはいはぬが「君が代」の曲を明治十三年から公式に用ゐたことは既に述べた。陸軍は明治十三年のその時に海軍から通牒を受けたけれども直ちに用ゐることはしなかつた。
陸軍では明治十六年八月八日に敎導團長から陸軍卿に宛てゝ「新調樂譜之儀ニ付申達」といふ上申書を出した。その文は
今般樂譜新調卽別紙之通候條扶桑ト名稱國歌之一部ニ相加候依而此段申進候也
とあり、別紙にその扶桑といふ歌詞を載せてある。それは七五調二十八句の長歌めいたものである。それが歌曲として何程の生命を保つてゐたか知らぬが、ここにいふ國歌といふものも、海軍にいふ所の國歌と同樣に、幾多の曲があつたやうだし、又下級の官廳が自由に作つたり、加へたりし得たものと見ゆる。然るときはその國歌といふ觀念は今日と甚しく異なつてゐたと考へねばなるまい。
軍樂としての「君が代」の曲は明治十八年に至つて一時期を劃した。明治十八年十一月三日に陸海軍喇叭譜及びそれに附帶する目次、所用區分表等が陸軍省達として公布せられたが、その第一は「君が代」であつた。卽ちこの時「君が代」は陸海軍樂の第一に位することを法規の上に示したのである。明治二十年一月十九日に制定した陸軍禮式に於いて天皇皇后兩陛下に對して喇叭「君が代」を吹奏することを明かに示したが、この時から陸海軍一同に用ゐたのである。
以上の事實を以て見ると、陸軍でも海軍でも國歌と云つたものは一つや二つの歌曲では無かつたのであつて、海軍が「君が代」を國歌と云つたのも、その多くの國歌の一として、(しかし第一のものとしたではあらうが)用ゐたものであつたが、しかし、いつの間にが「君が代」がそれらのうちの第一と認められ、之を國歌とするといふ公式の布吿も無くして自然の間に人々が國歌と唱へ、又人々がそれを認めて來たものといはねばなるまい。然るに或人の書に
さらに(明治)十五年には太政官の布吿によつて國歌として制定せられ云々
とある。この布吿が確かなものであるならば、之を以て國歌の制定とすべきであらうが、私はさやうな布吿のあつたことを知らぬ。之は果して實際かどうか、それを提言した人の正しい證據を示されむことを望む。前後の國情から見てこの事は有るべくも無い事である。それ故に私は信じ得ないのである。
文部省は國歌といふことに就いては明治十二年十月音樂取調掛を置く頃までは別に考へも無かつたことは明かであり、その後も「君が代」を國歌とは思つてゐなかつたことは上にもいふ如く、明治十四年十一月に編纂した小學唱歌集初編第二十三に「君が代」と題して短歌の「君が代」を首として八句の唱歌二章を揭げてゐる。「君が代」の歌が國歌であるといふことが公式に定められてゐたら、かやうのことは出來ぬ譯である。それから明治十七年二月に音樂取調掛長伊澤修二から文部卿に宛てゝ差出した音樂取調成績申報書には音樂が德育に資すること多大であると云うて歌曲の名をあげてある、その曲どもは
霞か雲か、螢の光、大和撫子、
思ひ出れば、雨霧に、忠臣、
君が代、皇御國、榮かゆく御代
であるが、いづれも小學唱歌集に揭げた曲の名であり、その「君が代」も上にいふ所の二章一曲のもので今我々が唱ふる國歌の「君が代」では無い。そこで考ふるに、短歌の「君が代」が國歌になつてゐたら、先づ之を敎ふべき筈である。さうで無い所を見ると、その頃、文部省は「君が代」を國歌とは思つてゐなかつたといふことになる。かくして文部省は別に國歌を制定しようとしたらしいことは上にも述べた通り「文部省沿革略」の明治十五年の條に
一月、音樂取調掛ニ於テ國歌撰定ニ從事ス
とあり、之に關して、音樂取調成績申報書に「明治頌撰定ノ事」と題する一章があり、先づ
明治頌ノ撰定ハ始メ國歌ノ資料ヲ撰定スル旨趣ニ出デタリ、其命ノ下リシハ實ニ明治十五年一月ナリ
とあつて、文部省沿革略に云ふ所に對應してゐる。而してその次に
抑國歌ノ事タル聖世ノ大典ニシテ其與カルトコロ至重至大ナレハ妄リニ斷了スヘカラサルモノアリ
と云ひ縷々述べてある。かくしてその明治頌と云ふものはその企圖する國歌その物であつたと思ふ。その明治頌の按は東京音樂學校に藏せられてあつた。それは
其一(二首) 神器 國旗
其二(二首) 禦侮 外征
其三(四首) 明治維新
とあつて、頗る長篇複雜のものである。この樣な複雜のものが國民一般に行はるゝといふことは常識から考へても見込の無いことである。 以上の如く宮內省、文部省、それ〲新に國歌を作らうとして皆失敗してしまつた。さうして結局、その生命の永く傳はり、その普及性の最も大であつた「君が代」の歌が誰がきめたと無く、いつの間にか事實上國歌となつてしまつたといふことは自然の事といはねばなるまい。
明治維新の後、西洋風の音樂敎育が行はるゝやうになつたが、明治十四年八月公布の師範學校敎則大綱に「唱歌ハ敎授法等ノ整フヲ待テ之ヲ設クヘシ」とあつて、その頃は師範學校に於いても有名無實であつた。一般に小學校で唱歌を敎へたのは明治二十年頃からであらうが、その頃に國歌といふことは小學校には無いし、「君が代」の曲を敎へるといふことは無かつたと思ふ。その頃の唱歌は小學唱歌集初編、二編を用ゐたものであつた。「君が代」の曲を學校で敎へたのは奧好義氏が明治二十年頃華族女學校で敎へたのを初めとすべきであらう。奧氏が華族女學校の音樂敎師になつたのは明治十九年四月であり、大正七年まで勤續した。この人がその學校で「君が代」の唱歌を敎へてゐた時に或る敎師が「君が代」は起立して歌はなければならないと云つたので、奧氏は不思議に思ひ、校長西村茂樹氏に何故に「君が代」を歌ふ時には起立せねばならぬかと、その理由を質したところ、校長は「君が代」は國歌で無いから起立するには及ばぬと云はれたと奧氏自身が話したと和田氏の書にある。西村茂樹氏が華族女學校の校長であつたのは明治二十一年七月から二十六年十一月までであるから、早くともそれは明治二十一年頃の話であつたらうされば、その頃華族女學校で「君が代」の唱歌を敎へてゐたけれど、國歌として取扱つてゐたものでは無かつたのである。
上にいふ如く明治二十年頃から小學校で唱歌を實際に敎ふるやうになつたが、未だ國歌といふ考へは小學校の敎育には無かつた。しかし、その後間も無く、學校の儀式に用ゐる唱歌を制定するといふことが要求せられて來た。卽ち明治二十四年頃祝日大祭日の唱歌決定に關する議が起り、その後愼重なる順序方法によりて得たる歌曲を審査淸撰して決定した。それが公式に制定せられたのは明治二十六年八月十二日で、文部省吿示第三號で、小學校儀式唱歌用歌詞並樂譜を公布せられたのである。この告〔ママ〕示では「君が代」を第一に置いた、それには
古歌、林廣守作曲
と記してある。卽ち明治十三年に海軍の依賴により宮內省雅樂課で撰定した壹越調律旋の曲を「君が代は」の古歌に加へたものである。
「君が代」の歌はその曲と共に學校の儀式に用ゐる唱歌の第一として尊重せらるゝこととなつて今日に及んでゐる。しかし、公式には文部省でも學校でも國歌といふ名目を與へたことは無いのである。而して公式にも私の場合でこの歌を國歌として用ゐ、又國歌と信じてゐる。私共の知つてゐる範圍では之を公に國歌と云つたのは海軍だけである。しかし、海軍でいふ國歌といふ意味は國の公式に用ゐる歌といふ程の意味で範圍の汎いもので「君が代」の歌一つを限つていふので無かつたことは上に明かにした所である。今我々はこの「君が代」の歌一つに限つて國歌といひ、亦それを信じて疑ふ所が無い。しかも、之をこの意味で國歌としたことは誰人がいつ、如何なる手續で定めたのか誰も知らぬのである。これはこの歌が最初に「題知らず」「讃人知らず」であつたと同樣にこれが國歌となつたのも誰も知らぬ間にかくなりかく信じてしまつてゐるのである。國歌を「君が代」と定めたのは結局明治時代の日本民族全體であり、それがいつの間にかさうなつてしまつたといふより外にいひ樣の無い事である。これは個人の考へでも無く、或る團體の考へでも無い、眞に日本民族の精神の結晶だといはねばならぬものであらう
上來「君が代」の歌の古代から今代に至るまでの沿革を略說した。之を通じて見るに、この歌ははじめは恐らくは
我が君は干代にましませ
さされ石の巖となりて苔のむすまで
といふ形であつたらう。それが又
我が君は干代にましませ
さされ石の巖となりて苔むすまでに
といふ形として傳はつたのであらう。さうしてそれが、稍久しく世に行はれてゐるうちに
我が君は千代に八千代に
さされ石の巖となりて苔のむすまで
となつたのであらう。この「千代に八千代に」といふ形の行はれた時代は光孝天皇の御時(一千五十年前)以前であつたらう。さうすると最初の形はそれよりももつと古くからあつたであらう。古今集に「讀人知らず」とあるに照して見ると、それは某々個人の作といふよりも一般民衆の間に自然に育つて來たものといふべく、而してそれは少くとも今から一千二百年位も前に生じたと見らるゝものである。
かくしてこの歌は古今集には賀歌の筆頭に錄せられ、天慶年中には和歌體十種に神妙體の第一として揭げられ、和漢朗詠集に祝歌の首にあげられ、深窓祕抄の卷軸に載せられたのはその古歌であるのとその意味のめでたさとによつたものであらう。さうして平安朝の末頃になると、首句が形をかへて
君が代は千代に八千代に
さされ石の巖となりて苔のむすまで
となつたらしい。さて首句が「君が代」とあると「干代にましませ」とはいひ難いから第二句は專ら「千代に八千代に」となつて「ましませ」とは云ひ難くなり爾後この形のみとなつた。
しかしてから鎌倉時代以後この形の歌が神事にも佛會にも宴席にも盛んに用ゐられて、上下一般の通用となり、現代まで引き續いて行はれてゐる。その間に室町時代に第二句の末の「に」を「を」として
君が代は千代に八千代を
さされ石の巖となりて苔のむすまで
とうたうたことも少くなかつた。しかしながら「八千代を」といふと、下の句との調和がとれぬ。けれども、このやうな形が生じたのは、この歌が廣汎に、知るも知らぬも口癖にして意味をも顧みずに歌ふ樣になつた爲にかやうに訛つたものであらう。たゞ第三句以下を顧みずにいへば「千代に八千代を」と云ふ方が「千代に八千代に」と「に」をくりかへすよりは變化があるやうであり「何に何を」加へるとか重ねるとかいふべき形になる樣な意識を生じ易いのでさうなつたのであらう。勿論これは訛であつて正しい物と辯護しうるものでは無い。さてさうなると「千代に八千代を重ねつゝ」といひたくなる。現に「うらみの介のさうし」にあるのはそれであるしかし、さうすると、第三句の「さされ石の」の在り場所がなくなる。卽ちうらみの介のさうしには
君か代は千代八千代を重ねつゝ
巖となりて苔のむすまで
となり、「君が代が巖となりて苔のむすまで」といふ譯もわからぬたはごとになる。しかし、こんなことでもやはり流行してゐたことであつた。これはこの歌が汎く古く行はれて來て、一々義理をとはずに用ゐられた故にかやうな形にまでなり下つたことを示すものである。
この歌が利用せられた範圍は近世に到つては極めて汎く、物語、お伽草子、謠曲、小歌、淨瑠璃、脚本、假名草子、浮世草子、讀み本、狂歌、狂文、箏唄、長唄、碓挽歌、船歌、盆踊歌、祭禮歌、琵琶歌から乞食の瞽女の門附にまで及び、地域よりいへば、都鄙にわたり、薩摩、大隅の離れ島にまで及んでゐる。卽ち年時の上より見れば千二百年許りつゞいて今日に至り、地域の上より見れば、京都、鎌倉、江戶の政權の中樞より、四國、九州の離れた孤島に及び、社會の相より見れば公家、武家、商賈、農民、船頭、物貰にまで各層に行きわたつてゐる。凡そ日本國の歌謠としてこの「君が代」の如く、遠く汎く、深く行き亙つたものは無いので、これが國歌となつたのは自然の勢といふべく人爲の力によつたものでは無いと思はるゝ
さて又その意味を顧みると、これは本來年壽を賀した歌であつて、それは上下一般に通用した歌であつた。それが、汎く用ゐらるゝに及んで本來の意味を稍離れて汎く祝賀の意を表するものとなつたのである。かやうに祝賀の意を表することとなると、めでたい席に於いて、先づこの歌を謠うて祝する場合と、その祝賀の意を宴席の最後に表する爲に謠ふとの二樣の姿を呈し、多くの場合「君が代」を歌ふは祝賀の席の最後を飾ることになつて來た。かくして後には瞽女の門附として謠ひつゝ物を貰ひ步くに用ゐらるゝまでに至つたのである。これはめでたい正月又は節供の時にそれを祝する精神から行はれて來たのである。それ故に祝賀の歌の最も根本的のもの最もめでたいものとして千二百年間つづいて來たものである。
かくの如くであるから、その普及の點卽ち上下一般に行き亙つてゐる點から見て、又その古くしてしかも千二百年間絶えず謠はれて來たといふ點から見て、又その祝賀の意の永遠の生命を祝ひつゝある點から見て日本國民の祝歌としてこれ以上のものも無く、これにかはるべきものも無く、又新にこれ以上のものを何人が作りうべきであらう。日本の國歌といふものを求めてはこれ以上に出づるものがどうして出來ようか。明治時代に國歌の必要を感じて宮內省も文部省もそれ〲骨を折つたらしいが、二三の試みがあつても一も採用せられず、明治の始めに假りに候補として選んだ「君が代」が誰が定むるともなく國歌となつてしまつたのは自然の事でもあり、當然の事でもあつたといはねばなるまい。
たゞ一つここに國歌としての性格の一の重要な點の存することを見のがしてはならぬ。それは何かといふと、その歌が一般に普及しても、その曲譜がまち〱であつては國歌としての資格を缺いてゐるのである。國歌となるにはその曲譜が國民全般に一致してうたはるゝもので無くてはならぬのである。江戶時代に「君が代」の歌の普及したことは著しく、その行はれた範圍が極めて汎かつたことは既に說いた所である。しかしながら、それらの曲は區々で統一が無かつた。卽ち
等皆それ〲その曲、固有の曲節を有してゐるべきもので、同じ歌を謠つても、その節々によつて違つた曲として取扱ふものであつて相互に融通すべからぬ點がある。その相融通することの出來ぬ點がそれらの歌や節の生命である。しかしながら、かやうに區々の曲節を以て異を立てゝゐては國歌としての實を擧ぐることは出來る筈が無い。明治九年海軍々樂長長倉祐庸の樂譜改定上申書に副へた改訂見込書の第一條に「君が代」の曲譜を一定すべき標準を示してゐる。卽ち
現時我國人ノ詠謠スル聲響ハ每地方其音節ヲ異ニスルヲ以テ何レヲ以テ正トスベキヤヲ斷定スル極メテ難シ。因テ宮中ニ於テ詠謳セラルヽ音節ト協合セシムルヲ以テ改訂ノ正鵠トナスベシ
とある。之は誠に正當適切なる意見であらう。
「君が代」の歌は上來述べたやうに和歌披講の例歌として古來一定してその謠ひ方が傳はつて來たものである。しかし、上に示す如く種々雜多の歌謠に應用せられてゐる。それらの曲の中に於いては各その處を得てはゐようが、處により場合により一々曲節がちがふのでは國民が一樣に謠ふものとしては適常とはいはれぬ。又披講は高尙優長なもので雅正ではあらうが、明治時代に入つての近代人には一般的に適するとはいはれぬ。ここに上下一般にわたり、又近代の人に適する一定の曲譜があればよいといふことになるのは自然の事であらう。明治十三年十月二十五日に制定せられた曲譜は宮內省伶人の最優者であつた林廣守の作つたものであり、本邦古來の固有の音階といはるゝ壹越調律旋による曲であるから、日本人固有の音樂感を湧かしむるに十分であり、而して之をその特性を害することなく、エッケルト氏が洋樂に編し改め、更に和聲を施したものであるから洋樂にも日本樂にも適切なる樂曲として成立したものである。而してこの曲譜が純日本調たることを失はないものであることは出雲寺敬和氏がその著に「壹越調律旋による君か代の曲」と標して
この「壹越調律旋」こそは純粹古樂器
和琴 の調絃法に則 つたわが最も代表的な、しかも外來音樂の影響を一切受けてゐない固有音樂で、林廣守が「君が代」の旋律を作曲するに當つて、この壹越調律旋の調子を用ゐられたことは純粹古樂に見る日本精神を大いに國歌の上に發揚したものと言はねばならぬ。
といひ更に又
なほ「君か代」の曲は洋樂の上ではたとひ
C 調に編曲せられてをつても、その原曲がどこまでも壹越調律旋の特性として壹越を以て曲の旋律を起止せしめることに重きを置いて作られたものであるといふことを十分に理解して、この點に於いても和琴の調絃法に傳へられた我が古樂の眞性がよく發揮せられてゐることを深く腦裡に刻み込んで頂きたいと思ふのである。
といはれたのでも明かであらう。伊庭孝氏の日本音樂慨論には「日本音樂の音律の篇の第五章「雅樂の六調」のうち『「君が代」と「越天樂」と』といふ項に
雅樂の旋調の理解を容易ならしめる爲めに作例を以て說明しやう。まづ萬人周知の國歌「君が代」を例とする。是は明治になつて伶人林廣守の新作したものであるから、古典的な雅樂旋法の例としては不適當だといふ非難があるかも知れないが、旋律の雄健豪壯にして純朴簡素なる事に於て日本の國ぶりを能く發揮するものであり、雅樂としては峻嚴なる美學的批判に堪ふ可きものであるので敢て之を例に擧用する次第である。
と云つてゐる。この言によつてその曲の雄健豪壯にして純朴簡素、しかも雅樂として嚴正なものであることを知るべきであらう。一千二百年前から國民の上下一般に行き亙つて支持せられて來た固有の祝賀の古歌に加ふるに日本固有の旋法によつた雄健豪壯純朴簡素にして、しかも雅正にして東西の音樂に通じて悖らぬ曲譜を加へ得たこの「君が代」の歌は眞に日本の國歌としての形質を十分に備へたものといふべきであらう。
茲に私は再び「君が代」の歌が國歌となつたその實質に就いて言を繰り返すことにする。「君が代」の歌は古來上下一般に行き亙つた古歌であるから國歌たるにふさはしい歌である。しかしながら、單にそれだけでは國歌とはなり得ない。國歌は唱ふべきものである。その一定の曲譜があつてはじめて國歌たる實質を備へたといふべきである。而してその曲譜は一般の人々が共に唱へうべく簡明にして、しかも國民共通の想を寓するに足るべきもので無くてはならぬものである。この意味に於いて今の「君が代」に加へられた曲譜はまことに日本國歌たるにふさはしいものであり、その曲譜の制定こそは國歌一定の契機となつたものである。かやうな一定の普通的の曲譜の加へられない限り「君が代」の歌は歌としては國民歌といはるべきものとしても唱へらるゝ國歌とは成り得ないのである。それ故に明治十三年は「君が代」の歌が國歌となるべき實を具備した歳であり、それより後おのづから國歌となつてしまつたのであるといふべきであらう。
以上を以て見るに、「君が代」の歌は千二百年以上の生命を有し、音樂界のあらゆる層に通じて用ゐられ、土地に於いて都鄙を通じて行はれ、社會に於いて上下貴賤を通じて行はれて來たもので、日本の國歌としての實質と生命とを有するものはこれを唯一として認めねばならぬものである。卽ちそれは日本民族唯一の民族歌ともいふべきものである。隨つて之が國歌となつたのは既にいふ如く自然であり當然である。
ただここに眞に國歌としての形を整へたのは明治十三年十月廿五日の林廣守の作曲とそれにエツケルトの加へた和聲とであるといふことを忘れてはならぬ。若し、明治時代に故意に國歌としたものだと強辯する者があるならば、私は「然り、それは國歌としての曲調を作り加へたからである」と答へよう。それ以外に何人がこの「君が代」の歌に加へたものがあらう。「君が代」は眞に日本民族のまことの自然の聲である。之を否認するものはその人既に日本民族の外に出てゐることを表示してゐると見られずにはゐないであらう
惟ふに國歌としての性格は一般國民に卽ち上下の階級を超越して誰にでも容易に通用せらるゝ普遍性と、國家の古今に通じて易らざる永久性とが具有せられてゐなければなるまい。而してその普遍性と永久性とは詞章の上にも曲譜の上にも存しなければならぬものであらう。今この「君が代」の歌は、詞章として形は簡素であるが、俳句の樣に短かすぎはせず、又近世の端歌のやうに俗習が無くて品格が高くて、しかも民族的普遍性を有し、その上古今を通じて一千有餘年日本民族の歌として上下に通じて用ゐられて來たもので、この歌を措いて國歌となりうる素質のある歌は無い。その上彼の林廣守の加へた曲譜も民族固有の旋律を具現し簡素にしてしかも中外の器樂にも適し、又國民一般の唱歌として雅正にして溫和、大國民たる襟度を表する洋洋の聲がある。この詞章とこの曲譜と相待ちて眞に日本の國歌たるの實を具備するものである。この歌は我々の祖先代々一千有餘年耳馴れて來た歌である。我々が生れてからの生年が十年、二十年に過ぎぬ場合でも、體內の血や、その血にやどれる心は幾千年來の昔から傳はつたものである。されば、この歌は一千有餘年の昔から我々の生れぬ前から傳はり傳はつて世々歌ひ來つた歌で耳慣れてゐるといへばこれほど耳慣れてゐる歌は他にはあるまい。而してその曲譜も亦日本民族の古來傳へ傳へて來た旋律に基づいたものである。かやうに詞章も曲譜も日本民族の情操の琴線を動かすべき質と力とを有するが故に、我々が之を聽くとき、言語に絶した至純の感興が油然とおのづから湧き出でて殆ど堪へ難い程の感銘を享くるのである。かくの如くであるから、公式に國歌と定めて國民に強制したといふ事實も無く、又之を用ゐつゝも學校などに對して國歌と唱へよと命じたことも無く、いつとなく上下一致して國歌と認めてしまつたのであらう。これこそ民族の歌國民の歌といふべきものである。今日以後誰あつて之にかはるべき歌を作り得べきであらうか。私は斷じてさやうなことは出來ぬと信ずる。
君が代の作曲に關する事の中、作曲者については、和田信二郎氏の著「君が代と萬歳」(昭和七年七月初版刊)にのせてある記事が、その裏面の祕話として大體正しいであらうと思ふ。卽ち奧好義の談話として
「牛込御門內雅樂稽古所の玄關側に當直して居た晩の事であつた。廣季氏(林廣守氏の長男)と自分と兩人で相談して作り、廣守氏の名義にしておいたもので、實際の事をいふと、其の時には君が代の歌に譜を付けるといふだけの考で、それが國歌であるといふ事は知らずに作つたのであつた」
と記してある。
私も父(芝祐夏)から、そのやうな祕話を聞いてゐるし、又奧好義は私の伯父にあたり、生前直接にそのやうな趣旨のことを、私に語つてゐた。和田氏の右の記事のやうに「當直してゐた晩」といふ細かい事は、その話に無かつたが、でたらめを言ふやうな人ではなかつたから、和田氏の記錄されたやうな事情であつたと考へてよい。ただ、そのやうな事をはつきり證明する書きもの、たとへば日記とか覺え書とかの類は、あればよいのであるが、存在しない。私は伯父、つまり奧好義に申して、書き物が遺つてゐないか調べて貰つたこともあつたが、丹念な人であつた伯父にも、その頃の日記といふ樣なものが遺つて居らず、殘念ながら何もないのである。だから林廣守の作曲として世に弘まつてゐるものを、公けに訂正する事などは、好義が存命中でも出來得なかつた事で、好義が故人となつた今日では致し方のない事である。
もし書きものがはつきり殘つてゐ、證據があつての上で、なほ誤つて林廣守の作曲といふ事ならば、この際はつきりして置くのが望ましいが、日記その他のもので確認できない故にそのままにしてゐるのである。樂部では、君が代作曲の祕話として、右のやうな事情が常識のやうに語り傳へられてゐることを私は知つてゐる。又、和田氏の書物の中に引かれてある芝忠重の談話
「君が代の作曲者は林廣守ではない。廣守氏の長男廣季氏と奧好義氏と兩人が作つたもので、廣守氏作曲といふのは雅樂課を代表しての名義であると見ればよいのである。樂部にては御大禮御大葬などの場合に數名の者が各〻作曲し、審査の上其の一が採用せられるが、それは其の人の作とせず、必ず樂長が代表者となり、個人の作曲とはしない慣例になつて居る」
この談話のやうに、樂部において幾人かの人が各〻作曲して持ち寄り、調べてその中の一つが採られるといふ時に、樂長や代表者の名で出ることは、よくある事だといふのも事實なので、林廣守といふ事で世の中に通つてゐるのを、全くいけないといふ風に強く主張するつもりはない。
私が申したいことは、實は、以上のやうなことではなく外のことなのである。
それは、今の君が代が雅樂の曲として作曲されたものだといふ說についてである。林廣守も、その長男の廣季も、又奧好義も樂家の出であり、各〻樂道の達人であつて、特に林廣守といふ人は、古來の三方及第といふ試驗法で滿票といふ成績であつた。だが、そのやうな人々の手になるものだから雅樂の曲だとしてしまふのは速斷である。私は年來、君が代は雅樂の曲ではない、唱歌だと考へてゐる。壹越調律旋と譜には書いてあるが、さう書いてあると言ふ事で、その曲が雅樂の壹越調だと考へてしまふのは早計である。
雅樂には、笙、篳篥、龍笛、琵琶、鞨鼓、太鼓、鉦鼓で奏する管絃卽ち器樂と、久米歌、大和歌、神樂歌などの歌曲とがあつて、器樂と聲樂は、その音階の本質を異にしてゐる。この事は一般洋樂とは、著しい差異であつて、洋樂は長短の二種音階によつてゐて、器樂も聲樂も音階に差異といふものがない。この點に、君が代が、雅樂か唱歌かの解明の鍵があると考へてゐる。
明治の初年に、樂家の人々は、京都、奈良、天王寺から、東上を命ぜられた。高齡の人人は舊地に留つたが、主流は東京に移り、明治三年十一月、太政宮中に置かれた雅樂局(後の雅樂課)の職員となり、新らしい時代卽ち歐化時代を迎へて、雅樂を傳承保存する傍ら、明治七年十二月に洋樂傳習の事を命ぜられ、洋樂にも親しむことになつた。その頃の音樂界の事は、これからなほ詳しく調べて書いて置かなければならない事だが、とにかく、雅洋兩面の硏究で非常に忙しかつた明治十年九月に、東京女子師範學校攝理中村正直より公の依賴を受けて、保育唱歌並びに遊戲唱歌の作曲が始められた。私は、君が代が、このやうな時代に、右のやうな依賴によつて作曲された保育唱歌の集の中に在ることを知つて、君が代が、世に言はれるやうに雅樂であるか、私が言ふやうに唱歌であるかの證を立てたいと思ふのである。
家藏の「保育唱歌箏和琴之譜」(明治十六年三月寫、芝祐夏自筆)や「保育唱歌上下」(書寫年代不明、芝葛鎭自筆)などの保育唱歌集の中で、祐夏筆の箏和琴之譜と、保育唱歌譜に、君が代が入つてゐる。同歌詞で、君が代といはず、さざれいしと題してゐるものもある。この保育唱歌といふのは、申す迄もないが、國歌などといふものではない幼童の唱歌や遊戲用の曲として用ゐられたことは、それらの本のはしがきに明記してある。唱歌の曲を雅樂局(雅樂課の前身)に作つて貰つては、敎育面で使用したもので、もともと樂部の人々が洋樂を傳習した結果生れたわけで、このやうな新曲唱歌凡そ百十曲ほどが、「唱歌遊戲の諸曲墨譜撰成伺」を經て定められたので、言はば官許のものであつた。その頃は、あの歌を作曲して見たが、今度はこれをやつて見よう、これも良い歌だから曲をつけて見ようかといふ風な機運にあつたのは確かである。とにかく、この保育唱歌の中の一つに、
壹越調律旋君が代 一等伶人林廣守撰譜
と明かに載つてゐるが、その六聲、つまりファを除いたドレミソラシの旋法に問題があるのである。
君が代が洋風の唱歌の曲として作られたものであつて、始めから國歌としてや、雅樂の曲として作られたものではないといふ點は動かないであらう。明治の十年前後には、今のやうにピアノ、オルガンがなかつたので、古來の和琴を活用して保育唱歌の稽古に用ゐてゐる。かく和琴を使ふからといつて、直ちに雅樂とは言ひ難いのである。このやうに墨譜といひ、和琴といひ、雅樂風の記載法や樂器を用ゐたのは、樂人の慣用手段に從つた迄のことであつたと考へられる。女子師範學校の幼童に敎へるにしても、樂部から和琴を持參して出敎授したし、そんなわけで、イ調だのニ調だのといふ代りに、壹越調とか盤涉調とかの名で、その調をあらはしたもので、君が代に壹越調律旋とあつても、これは呼び名が雅樂風のいひかただといふに留まるので、內容まで雅樂だといふ意味ではないと考へる。
なほ、君が代は、雅樂として宮中で演奏されて居るとよく言はれるが、古來、天皇の出御入御には、調子といふものが奏される例で、昭和九年二月十一日、時の樂長山井基淸氏の新案によつて、君が代に龍笛、篳篥、和琴を添へた新譜をととのへて奏したのが始めてである。先年の立太子式の時には、私か原案して、笙、篳篥、龍笛に、琵琶、箏、打物の譜を作り奏したが、歌曲を樂器で奏するので、誠に不滿足なものとなつてゐる。
君が代の、作曲された本來の意味合ひから、いはゆる雅樂曲として宮內省制定の譜(三管兩絃鼓類の譜)は見たことがない。保育唱歌としても、一々上申し、伺を立てて作られたやうな次第で、國歌などといふ重大なものになつては、必ずや曲譜撰定の事があり、右にいふ諸譜が制定されてゐなければならない筈である。これらの無いところから見ても、君が代は、謂はれるやうに國歌としてや、雅樂として作曲されたものではないと見られるのである。
本書の內容はすべて前揭の主著、その他多くの先著より恩惠を蒙りたること多大なり。又祕籍の寫眞を撮ることを特に許された宮內廳の高庇を深く謝し奉る。附錄として芝先生の高見の一端を窺ひ得たるは讀者も必ず感謝せらるべく著者として感謝すること多大なり。寫眞撮影の爲に助力せられたる佐藤喜代治、橋本不美男の兩君及び索引の作製に力を致されし前澤享君に對しても感謝する所多大なり。山田俊雄の勞も亦忘るべからず。 本書は緖言にいふ如く、國歌可否の論にあらずして、それの根本として顧みるべき「君が代」の歌の沿革並びにその本義本質を說くにあり。冀くは讀者諸君の心を虛うし氣を平かにして一往著者の言に耳を貸されむことを冀ふこと切なるものなり。
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